見出し画像

「自由」に夢を託した少年は、「自由」の味を知る。


 大きな商業施設の中にある書店に駆け込む。カフェの併設された書店には、昼間からMacBook開いてヘッドホンをつけたくせ毛風パーマの青年やお洒落なブックカバーをつけた、トゥルトゥル髪のお姉さん達が充実した表情で過ごしている。しかし、万引き防止の為につけられた天井のミラーに映る僕の表情は、なんとも生気のない表情を浮かべていた。買いたい本がある訳でもなく、僕はただただ助けを求めるように並べられた背表紙に視線をぶつけ続けた。

そう、僕は今日会社を辞めた。

 僕は映画が好きだ。暇さえあれば映画を見ていた。誰が作った映画だとか、誰が主演だとか、映像美やストーリーなどは決して詳しくはないが、「趣味はなんですか?」と聞かれれば、「映画鑑賞」と答えていた。しかし、最近気付いた事がある。僕は映画が好きというより、「映画を探している時間が好き」なのかもしれない、と。いや、もっと言えば「だらだらと映画を探し続けた後、バチっとハマる映画に出会う体験が好き」と言った方が正確かも知れない。それに気づいてしまってからは、なんだか映画を見る機会も少なくなってしまった。

 映画選びで成功を手にした時の事を振り返ると、思う事がある。何気なく手に取った作品が、その時の自分にとって、とても意味あるものに感じる現象は、きっと奇跡ではなく、潜在的に感じている事を、脳が無意識に選ばせているんだと。「ラッキーカラーは、赤です!」と、本人は何も知らないくせに台本を、読み上げるアナウンサーの言葉を聞いて、「あれ、なんか今日は赤い車をよく見かけるな」と道中でアナウンサーの言葉を信じてしまうようなもんと同じじゃないかなと。(カラーバス効果って言うらしい)

 会社を辞めた日、僕はその奇跡と錯覚してしまうその現象は起きた。

「自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと」

 書店に足を踏み入れて、7分で僕は、この背表紙のてっぺんに指をかけ、一冊の本を手に取った。中身は見ていないが、足早にレジに向かい、漫画を2冊抱えた高校生の後ろに並んだ。

 「自由」その言葉を、潜在的に求めていたんだと思う。その意味を深く知らぬまま、僕はその一冊に、残りの人生の命運を欠けるように、スカスカの財布からお札を抜けとり会計を済ませる。

 あれから、6年の月日が経った。今僕は「自由」という言葉の味を噛み締めている。咀嚼に咀嚼を繰り返して、その味を脳が理解する事をひたすらに待ち続けている。まだ味はしない。「自由」は今のところ味がしない。今のところ、「自由」という言葉の味は「無味」だ。味どころか匂いすらしない。

 僕はいつか、「自由」という言葉の味を知る事が出来るのか。とりあえず、amazon primeで映画を見る事にしよう。


※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。 

※書店で一冊の本に出会ったのは、事実です。

https://www.amazon.co.jp/自由であり続けるために-20代で捨てるべき50のこと-Sanctuary-books-四角大輔/dp/4861139716

「最後まで読んでくれた」その事実だけで十分です。 また、是非覗きに来てくださいね。 ありがとうございます。