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冬眠していた春の夢 第24話 10年前の事故③

 緑の弟である名古屋に住む田所明雄は、早くに結婚したものの子宝に恵まれず、姉にできた長男の春馬をこの上なく愛していた。
 元々姉を慕っていた事もあり、それはもう尋常じゃない可愛がりようで、春馬が欲しいと言う物は何でも買い与えたし、行きたい所にはどこへでも連れて行った。 
 緑に「あんまり甘やかさないで」と苦言を呈されても、全くそれは変わらなかった。
 そのくせ、5年後に生まれた美月には、なんの関心も示さなかった。
 「女の子はようわからん」と言って、抱っこする事もなく、春馬ばかりを可愛がっていた。
 夫がそんな感じだったから、その妻である久子は、美月が生まれたのを喜び、対抗するように可愛がった。

 春馬が行方不明になってから、名古屋の叔父は会社を休んで、泊まり込みで捜索に加わっていた。
 その間、抱えきれない憤りや悲しみを、まだたった3歳の美月に対して、容赦なく罵声としてぶつけるのだった。

 「お前が春馬について行って用水池に落ちそうになったから、春馬がお前を助けようとして落ちたんだ。お前なんて生まれてこなきゃ良かったんだ!」

 それは大抵、美月の両親がいないところで、美月にぶつけられていた。
 緑が春馬に美月を託してしまった事に非があるし、母との約束を破って美月を残して遊びに行き、しかもちゃんと見守るどころか、幼い妹を脅して転ばせた事は、完全に春馬の非であった。
 それでも、愛する甥っ子をなくした明雄の悲しみと怒りは、そんな理性を受け入れられなかった。

 そんな夏のある朝、泣きながら起きてきた美月の全身に、湿疹ができていた。
 緑は美月をすぐに病院に連れて行ったが、原因が判明せず、処方された軟膏を塗っても、一向に治る気配がなかった。
 夏の汗をかく時期でもあり、痒みで眠れない美月は夜泣きをするし、ただでさえ精神的に追い詰められた状態の緑は、藁をも掴む思いで隣の恵子に泣きつき、恵子の知り合いの神子に、お祓いをしてもらうことにした。
 すると、不思議な事にその夜、美月は夜泣きする事なくぐっすりと眠り、朝起きたら、すっかり湿疹が消えていたのだ。

 でも、喜んだのも束の間、湿疹がキレイに消えたように、不思議なことに美月の脳裏から、それまでの記憶も全て消えていた。
 言葉はちゃんと喋れるし、トイレも1人で出来るし、今までに出来ていた事は全て出来るのに、なぜか過去の記憶がなくなっていた。
 それでも、まだ3歳だったから、側にいる人をお父さんお母さんと認識するのは簡単な事だった。
 ただ、そこにいない兄の事は、説明のしようがなく、いつのまにか美月の中で、春馬の存在はないものになっていた。

 そうこうしている内に、緑が心労で倒れ、長期入院をする事になり、親族間での話し合いの結果、美月は豊橋にいる祖父母の元へ預けられる事になったのだった。
 そして、どんなに捜索しても春馬の遺体は見つからず、死んだものとあきらめる事も出来ないまま月日は流れ、自分達でさえ気持ちの整理がつかないままの両親は、美月にどう伝えるべきか悩み続け、美月は自分の中に兄の存在がないまま成長したのだった。


 第25話に続く。

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