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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑱

しかしながら極めて巨額の売上金からプーシキンはほとんどなにも受け取れなかった。過分な分け前は出版者のН.И.グネージチの手に渡ったのだ。一部の研究者はグネージチを非良心的であると非難する向きがある¹。しかしその時代の認識では、グネージチは非難に値するようなことはしていなかった。文学の所有権という概念は、当時は存在しなかった、またあらゆる詩選集の出版者は、死んでいる詩人の詩だけではなく生きている詩人の詩に対する売上金も、平然とポケットにしまっていた。出版の仕事は《卑しい》ので、金銭的な補償が必要とみなされていたが、それに対し詩は、ただ報酬のために低く評価されるかもしれなかった。特徴的であるのは、18世紀の雑誌において翻訳者には報酬が支払われたが、詩人は、もし金を受け取るようにすすめられたら、侮辱を感じたかもしれなかった(《霊感は売り物ではない》)。同じようにグネージチは、自分の友人であるバーチュシコフの作品を出版し、出版がもたらした15,000ルーブルから、作者に支払ったのはたった2,000ルーブルで、残りを自分が手にした。彼を非難するということは、だれの頭にも浮かばなかった。しかし、プーシキンは、自分が新しいタイプの文学者であると感じていて、出版業界の素人趣味や非プロフェッショナリズムに妥協したくはなかった。1821年9月21日のグレチへの手紙には、自分の第2作目の物語詩《カフカスの捕虜》を提供し(グネージチを回避したので、彼は非常に腹を立てた)、彼は《詩人-出版者》の関係の実務的性質を皮肉っぽく強調しつつ、こう書いた:《私の《カフカスの捕虜》からの一節をあなたに送りたいと思っていますが、書き写すのが面倒です;あなたは私から物語詩をまるごと全部買いたいとは思いませんか?詩の長さは800行;行の幅は―4脚韻;2つの歌に分けられます。商品がたなざらしにならないように、安く譲ります》(XIII,32-33)。グネージチは他の可能性のある出版者たちを押しのける能力があった(彼の原動力となったのは私欲ではなく、功名心に満ちた願望がプーシキンのパトロンであり出版者でもあるという役割のなかに現れてきた、ということは予想できる)、そして第2作目の物語詩もまた、作者には500ルーブルが手渡され、出版者は、おそらく、5,000ルーブルを手にした²。しかしながら、結果的にはプーシキンが勝利したのである。
  ¹ヘッセン С. 出版者アレクサンドル・プーシキン. レニングラー  ド,1930,p.34-35
  ²同上, p.40
 第3作目の物語詩 ― 《バフチサライの泉》の出版者として進み出た友人П.А.ビャーゼムスキイの助けにより、プーシキンはその時代としては例外的に高額な著作報酬を手にした。ロシアの雑誌は、プーシキンのこの物語詩によって呼び起こされたロマン主義についての論争とビャーゼムスキイのこの詩によせられた序文に引き込まれていたが、また同時に、ロシアにおける詩との《ヨーロッパ的》関係の始まりとして、報酬の面を特に指摘した。
 文学的活動に対する態度として詩人の二つの顔はまだ兼ね備わっていなかった ― プーシキンの創作活動の次なる現実的な段階において、一つになろうとしていた。
 キシニョフでの滞在が、プーシキンとデカブリストたちの運動との結びつきに特別な広がりを与えたことは特徴的であった。南部地方に配置されたП.Х.ヴィトゲンシュタイン将軍の第2軍隊は、福祉同盟の最も決断力ある構成メンバーたちの隠れ場所であった。ヨーロッパは、ナポレオンの陥落後に立ちすくみ、新しい改革への精神的高揚を追体験していた。ロシアでは解放運動が急速に高まっていた。プーシキンはこの雰囲気に没頭した。しかし、ペテルブルクにいた頃とは違って、彼はもう、エリートたちのドアをノックする生徒ではなかった、 ― 彼は自分が詩人であることを感じ、自分の場所 ― 国民のなかにある詩人の場所を見定めようとしていた。


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