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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑰

 しかし詩人の文学との関係はまた、ロマン主義の理想と要求とは強烈に対象をなしている、もう一つの側面を持っていた。プーシキンは切実に金を必要としていた:取るに足らぬ地位の俸給はわずかで、父は事実上、物質的援助を拒否した(父の古い幾つかの燕尾服をキシニョフへ送るというような滑稽な援助は、長く続く文通を招いたに過ぎない)。そのうちに、プーシキンの詩の人気と、詩の出版に対する読者の需要の急速な高まりが、かなりの報酬をもたらしうるということが明らかになった。
 しかしながらこの途上には、多くの障害があった:ロシアには、作者の権利を保護し、出版物の法律上の側面を調整する、いかなる法律も欠如していること、また、未熟で無関心で時おり不十分に良心的な仲介人たちの助けに頼らざるを得なかったプーシキンの追放。しかしながら根本的な障害はほかにあった:ロシア文学において、詩は ― 神からの贈り物であり、労働ではない、そして詩に対して報酬を得ることは詩人にとって侮辱的である、という認識が支配していた。そのうえ、金銭的な心配事は、詩的紋切り型に従って気高い貧しさがふさわしいロマン主義的追放者の立場とは、相いれないものと思われていた。
 生活上の諸事情がプーシキンに、自分が職業作家であると感じさせた。それは《何もせずに遊びくらす怠け者》というような詩人のロマン主義的イメージとは矛盾していた。プーシキンの明晰な知性は、これによって、彼自身が力を傾注してきたロマン主義的伝説が壊れることを認めていた。1821年5月7日のА.И.トゥルゲーネフへの手紙の中で彼はこう書いた:《私のつかの間の青年時代のつかの間の友人たちに、私に金を送るよう知らせてください、それによって彼らは新たな印象の探索者にはなはだ恩義を感じさせるでしょう》(XIII,29)。《つかの間の青年時代のつかの間の友人たち》と《新たな印象の探索者》 ― はエレジー《きらめく陽がしずんだ…》からの引用句である。その引用句と金の依頼を結合して、プーシキンは意識的に二つの世界 ― 韻文の世界と生活上の散文の世界を衝突させた。詩人は両方の世界に係わりがあることが分かっていた。無慈悲で、長く続く文学者の権利のための闘いが控えていたのだが、それ以前にプーシキンは、結果的にその闘いに勝利し、ロシアにおける職業としての文学と作家の権利の基礎をおいたのだ。
 プーシキンの最初の物語詩が出版されたのは、彼がすでに南方にいた時だった。それは非常に大きな金銭的成功をもたらし売り切れた。《モスクワ通信》は後にこう書いている:《ルスランとリュドミーラ》は〈…〉1820年に出版された。その当時、それはすべて買いつくされて、長い間それは一部も流通しなかった。入手希望者たちは25ルーブル払ってそれを書き写すことを強いられたのだ》¹
  ¹《モスクワ通信》1828, No. 5, p.77-78.

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