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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑯

 しかしさらに多くの疑問がのちに生じている:プーシキンはこの女性の一つの思いを全読書界の意見よりも大切にしている、という言葉は、こみ上げるような誠実さをもって響いている。彼女の名前は、自分の名を夕べの星と呼んでいるこの《若い乙女》が ― プーシキンの《秘められた愛》の対象となる役として最も推定できる候補者である以上、当然ながら、伝記作家たちの興味を引いた。ここでは、グルズーフでのエレジーのなかでラエーフスキイ家の令嬢たち、あるいはラエーフスキイ家の妻たちのうちの一人について触れられているかぎりにおいて、 ― 特にマリヤ・ニコラエヴナ・ラエーフスカヤ(結婚して、夫の後を追ってシベリアへ向かった有名な《デカブリストの妻》、ヴォルコンスカヤになった)の人物像が執拗に引っ張り出されていた。しかしながら、Б.В.トマシェフスキイが記録にもとづいて、《若い乙女》とは ― 将軍の長女、エカテリーナ・ラエーフスカヤ(若くしてМ.オルロフと結婚した)であることを証明してからは、プーシキンのベストゥージェフへの手紙の言葉の評価は変わらなければならない:プーシキンはエカテリーナ・ラエーフスカヤの美しさと性格を評価していたが、彼の方から彼女にどんなに真剣に熱中しているかということについて、話にもでていなかった:彼女とМ.オルロフの結婚は、彼に多少軽々しい冗談を呼び起こしただけだった(また1825年ビャーゼムスキイへの手紙のなかで、彼は彼女を《名誉あるおっかさん》(XIII,226)と呼んだ)。もしブルガーリンによって公表された手紙の断片に付け加えるならば、話はまったく彼女についてではなく、詩を叙情的な自分の心の日記として描き出しつつ、自分のエレジーをロマン主義的伝統で取り囲むために、プーシキンはベストゥージェフを、また彼を通じて彼にとって最も重要な読者層を煙に巻いたのだ、という結論を導き出すほかはない。
 さらに《バフチサライの泉》に関して、このことが明らかである。プーシキンはペテルブルクの文学サークルにおいて、意識的にはっきりとした目的をもって、そこですでに物語詩が生まれる前から、作者の感情と物語詩の直接的関連性についてのうわさを引き起こした。1823年8月25日にオデッサからプーシキンは弟へ書いた。《ここにはトゥマンスキーがいる。彼は善良で若く、時おり嘘をつく ― たとえば、彼はペテルブルクへ手紙を書いて、何気なく私についてこう話している:プーシキンは私にすぐに自分の心の内と書類かばんを開いた ― 恋愛のことと… ― 立派なВ.コズロヴァという発言;問題は、私が彼にバフチサライの泉(私の新作の物語詩)からの断片を読み、私はそれを出版したくはない、なぜなら多くの場所が、私がとても長い間おろかにも愛していた一人の女性と関係があるから、またペトラルカの役割は私には気に入らないからと言った、ということにある。トゥマンスキーはこのことを心から信用されていると勘違いして、私のことをシャリコフ¹のような者たちに詳しく知らせているのだ ― どうか助けてくれ!(XIII,67)。
 ¹П.シャリコフ:感傷主義的作家。彼の書く人物は文学サークル内で喜劇的なものとして受け入れられていた。
 
 この手紙にはたくさんの不可解な点がある:第一に、プーシキンは《バフチサライの泉》と自分の個人的な体験との関係について、おしゃべりとして知られているトゥマンスキーに何も知らせないことができた。第二に、テキストから見ると、トゥマンスキーはプーシキンに自分が書いた手紙を見せている、そしてプーシキンの影響下にありながら説得したり、あるいは(プーシキンはまたそれ程重要でない原因によって決闘の申し込みを送った、そこではなはだデリケートな問題に言及していた)プーシキンに手紙を発送することを差し控えるよう強いている。プーシキンは手紙を送らなかっただけでなく、それどころか、新しい物語詩についてまだ何も聞いていなかった弟レフに、目下の噂が広まるのを阻止するよう依頼付きで、トゥマンスキーの手紙からの抜粋を送った。レフ・セルゲーヴィチの放言の名だたる節度の無さを考慮に入れて、ここではまさに物語詩を文学サークルの財産とする見解を示すことだけを希望していることが読み取れるだろう。
同じ手紙において彼はこう書き足している:《私はヴャーゼムスキイに泉を送るつもりだ ― 恋愛のたわごとを出版する ― ああ、惜しいことだ!》(XIII,68)しかしながら、物語詩の草稿の研究にはがっかりさせられる:《恋愛のたわごと》(それについてプーシキンは再三友人たちに書いた)は、刊行する際に削除されたかのごとく、まったくそこには含まれていなかった。物語詩は重大な削除はなく発表された。
これらすべてが物語っているのは、プーシキンの理性的で目的意識のある志向が、読者の見るところで彼の作品に連結する文脈として役立つ、文学上の彼自身の《第2の伝記》を作っている、ということである。¹
  ¹細部は注目に値する:1822年、Е.ヘイトマンによる幼少期のプーシキンの版画の肖像画が添付された《カフカスの捕虜》が出版された。プーシキンは柔らかいシャツのボタンが開かれた状態で描かれていた。このような細部は、読者を柔らかいシャツの襟をだらしなく開くことによって同じくらい詩的なバイロンの肖像画の記憶へと導いた。


へイトマンによる肖像画


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