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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑲

 プーシキンがキシニョフでおかれた状況は、何よりもまず活動状況がペテルブルクとは違っていた。その時代の南ヨーロッパ:スペイン、ギリシア、ナポリ、ピエモンテ州 ― を揺るがしていた革命の反響が、はるかに直接的にここに達していた。その一方で1821年1月、Т.ウラジミレスクの指揮のもとトルコ領モルダヴィアで蜂起が勃発し、そのすぐ後の2月22日、ロシア軍の将官であり、モルダヴィアの統治者の息子であるギリシア人А.イプシランティプルト川 ― ロシアとトルコ領モルダヴィアとの境界-を渡り、ヤシに到着し、オスマン帝国のギリシア人たちに集団的蜂起を呼び掛けた時、プーシキンはまさに事件の中心地にいたのである。
 デカブリストたちが、ロシアの自由主義者たちの一般的な広範囲にわたるグループとして期待していたのは、ロシアが、アレクサンドル一世の半公式の約束が実行され、同じ信仰を持つギリシア人を擁護し、まさにそのことによって圧政に抵抗する人民の解放戦争に引きずり込まれること、そして必然的にロシアの内政にも影響を及ぼすことであった。プーシキンは戦争を待っていたのであり、戦争に参加することを承認してもらえるように準備をしていた。彼はトルコ語を勉強し始め、彼のペテルブルク帰還のために奔走することを一旦中止するよう、友人に頼んでいた。この時期、彼はきわめて親密にキシニョフにいるギリシア人武装蜂起者たちのグループと付き合っていた。1821年3月初めに彼は書いている(おそらく、デカブリストのВ.Л.ダヴィドフ宛てに):《君に事件について知らせよう。それは我々の地方にとってだけではなく、全ヨーロッパにとって重要な結果となるだろう。ギリシア人は蜂起して、自らの自由を宣言した〈…〉私はある武装蜂起者の手紙を見た‐彼は熱心にイプシランティ公の旗と剣を清める儀式を描写している‐聖職者と民衆の歓喜を‐そして希望と自由のすばらしい瞬間を〈…〉知性の歓喜は最高の段階へ到達し、すべての想念が一つのテーマ-古代から続く祖国の独立へと注がれた。オデッサでは私はもう好奇心をそそる光景を見なかった;小さな店、路上、旅籠屋‐いたるところギリシア人の群衆が集まって、みなが取るに足らぬ自分の財産を売って、サーベルや小銃、拳銃を買っていた、みながレオニダスについて、テミストクレスについて話していた、みなが幸運児イプシランティの軍隊に入った》(XXIII,22-23)。
 ギリシア蜂起は、政治的熱狂体験、《希望と自由の美しい瞬間》でプーシキンの心を満たしただけではなかった、― それは彼にもっとも重要なその時代の政治的出来事を近くで観察し、その出来事の隠された真相と裏の面を見る機会を与えた。これはプーシキンが、1830年代にペテルブルクにいる外国の外交官たちを驚かせた、明確な国家的思考の驚くべき才能を備えていることについての実例のうちの一つであった。プーシキンは蜂起した陣営内の悲劇的な分裂 ― 農民から編成されたウラジミレスクの軍隊の利益と貴族階級の指導者イプシランティの利益との血なまぐさい衝突を観察しなければならなかった。それは一方はモルダヴィア人とルーマニア人、他方はギリシア人という民族間の対立によって複雑なものになっていた。彼は、蜂起の指導者と、第ニロシア軍隊の指揮官と、ロシアの秘密結社活動家たちとの間の複雑な関係の観察者であった。


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