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時の影 第3回(完)(文字数7319 無料)

第2回からの続きです

疑惑

「……というような訳で、二月二十二日の二時には彼が家にいたことは確かなんです」
わたしは中庭でのエピソードをかいつまんで話した。電話の向こうはしばらく考えているふうである。
「わかりました。それではそのうちに詳しいことを聞くためにお伺いすることになるかもしれません。いつ頃ならご在宅でしょう?」
「八時以降はアパートに帰っていると思いますけど……前島は何かの事件の容疑者にでもなっているんですか?」
「いや、申し訳ありませんが、それはちょっと……」
刑事からの電話が切れると、わたしはすぐに白峰さんに電話をかけた。別れ際に連絡先を思い切って聞いたところ、意外に近くに住んでいたのである。しかし電話をかけるのは初めてだった。
「もしもし、白峰です」
「良子さん?柿原だけど」
わたしは今の話を聞かせた。そしてその日の二時にはみんなで日時計を見ているから間違いなく前島が家にいたことも。話が終わると彼女は受話器の向こうで黙り込んだ。
「もしもし?」
「……本当に柿原君は前島君に腕時計を貸してあげたの?」
「ああ。そうだけど。それが?」
彼女は思い詰めた口調で答えた。
「私もあの日の朝に食堂で同じことを言われて前島君に腕時計を貸しているのよ。女物でも時間がわかればいい。ポケットに入れておくからって言っていたわ」
わたしは言葉を失った。明らかに前島は何らかの欺瞞(ぎまん)を行ったのである。
「……どうやら、私達もう一度前島くんの家に行く必要があるみたいね。今度の土曜にでも都合つく?」
話は決まった。わたしがそのことを前島に言う役となってくれと頼まれた。
「なんだか嫌だなあ」
「なに言ってるの。男友達でしょう」
しょうがないのでそれからすぐに前島の家に電話した。相変わらず元気のない声で彼が出た。今度の土曜日に行ってもいいかと聞くと彼はすぐに了解した。
「午前中はいないから迎えには行けないけど、場所はわかるよね。タクシーでもそんなにかからないから白峰さんと一緒に乗ってくればいいよ。鍵は、そうだな……玄関にあるポトスの鉢の下に隠しておくから、勝手に入っててくれたまえ」
電話を切る直前、腕時計のことを切りだそうとしたが、どうしてもできなかった。

推理

土曜日、わたしは電車に揺られていた。
今回は前回のように手放しで楽しむというわけにはいかなかった。あれ以来、警察からの電話はなかったが、わたしはいかなる容疑が彼にかかっているのか気が気ではなかった。古新聞を漁って二月二十二日の事件を眺めてみたりした。西崎市で起こっている事件といえば銀行強盗であるが、これは時間が午後三時直前である。しかも犯人は捕まっている。それ以外には載っていなかった。まだ公開されていない事件の容疑者なのだろうか。
別れ際に彼が『できるだけ近いうちに』と言っていたのは、いずれ警察に捕まってしまう身であることを暗示するものだったのか?
わたしは混乱状態にあった。しかし、彼が我々を欺こうとした方法に関してはある程度の予想はついていた。
だんだん暗い気分になっていると電車は西崎神宮前に着いてしまった。
十五分ほど待合室で時間を潰す。
前島に対して穏やかでない疑惑を抱いているというのに、白峰さんを待っていることを妙に嬉しく感じている自分に呆れた。
しかし、彼女が現れた途端にわたしは明るい声で呼びかけながら手を振っていた。

前島の家の車庫に車はなかった。言っていた通り、出かけているようだ。前島に教えてもらったはずだけれど忘れてしまったので、白峰さんにポトスを教えてもらい、その鉢植えの下に鍵を発見した。
静まりかえった家の中。食堂のテーブルには置き手紙があった。
『珈琲でも飲んでくつろいでてください。一時頃帰ります。前島』
壁の時計を見ると十二時。あと一時間あまりだ。
珈琲をいれて白峰さんと向かい合って飲むが、どうにも落ちつかない。前島のことを考えなければいけないと思うとそれも当然である。
白峰さんはうつむいて溜息をついた。
「私も気になって一つ確かめたことがあるの。あの日前島君が帰ってきてからお昼を食べたでしょ、その席で彼は冷蔵庫の中からアイスを出してきたわよね」
わたしはうなずいた。あれは実においしかった。
「でも、考えてもみて、あの日は午前中に停電があったはずなのよ。それにしてはあのアイス溶けた様子もなかったわ。一度溶けてしまうとアイスって結構味が変わるものなのよ」
わたしははっとした。そこに気がつかなかったとは、なんとも迂闊(うかつ)な話だ。
「私、市役所や電力会社に電話して聞いてみたのよ。そしたらその日西崎市で停電なんてなかったって」
沈黙が訪れた。これで彼の容疑は決定的だ。停電はこの家だけであったのだ。おそらくテレビやラジオのある部屋の電気だけ配電盤かどこかで操作して切ったのだろう。あるいはもっと簡単にコンセントを抜いてあっただけかもしれない。おそらく、冷蔵庫に関しては前島がうっかりしていたのだろう。
「そもそも僕達は彼のアリバイを証明するために呼ばれたのかもしれないね」
何だか悲しくなってしまって、いまさら説明などどうでもいいような気もしたが、彼女にはそれを聞く権利はあるだろう。
わたしは話を切りだした。
「……警察が問題としている時間に彼がここにいたことを証明するのは僕達だけだ。……そして、前島は僕と白峰さんから時計を借りて、僕等の時間をごまかしたわけだ。僕等に偽のアリバイを証明してもらうためにね。彼はあの日の夕食の席で僕に時計を返したけど、それは君がいなかったときだ。自分の腕時計が見つかったと言っていたが、もちろん最初からなくしてなどいなかったんだろう」
彼女はうなずいた。
「私もあなたがお手洗いに行っているときに返してもらったの」
「そうなると我々から時計を取り上げた彼の目的は、時間に関する情報を我々に誤認させるためであったと考えられる。当然僕達がいた書斎の時計は遅らせてあったんだ。まあ、一時間がごまかせる限界だろうけど。見てごらん」
わたしは食堂の壁の小さな壁掛け時計を指した。
「この前はあの時計はなかった。白峰さんはここで彼に時計を渡したと言っていたね。それも彼のシナリオ通りだと考えられる。つまり正しい時間を指している腕時計と、食堂の時計が違っていたら、気がつかれてしまうし、正しい時間を指していたら、書斎に行ったときに違和感を抱くだろうしね」
「そうね。書斎の時計だけ、ずらしてあったのね。でも大きな問題が残るわ」
わたしはうなずいた。
「彼が帰ってきてからみんなで一緒に見た中庭の日時計だね。二月二十二日の二時だと彼が騒いでいた」
「それを印象づけようとしていた彼の行動も、今となっては理解できるわね。でも、あれだけはどうしようもないんじゃなくて? 日時計をごまかすなんて」
「それも僕は二つばかり仮説を考えてきたよ」
名探偵気取りで得意げになってきている自分に気がつき、またしても少しばかり自己嫌悪に陥る。それでも、話さないわけにはいかない。
「まず、僕達が見た影が既に偽物であるという考えだ。日時計の針に相当するのは影であるから、あの影を動かしてしまえばいいんだ」
彼女は驚いてわたしを見ている。真相を説明する探偵も、いまのわたしのような快感を覚えているのだろうか。
「どうやって?」
「まあ、少しばかり無理があるんだけど、僕達が見た二時を指し示す影は、実は油性ペンか何かで塗った物ではないかと」
彼女の表情はみるみる曇っていく。
「それはおかしいわよ。だったら本物の影はどうするのよ」
あれ? それは考えていなかった。慌てて頭に浮かんだ説明をつけ加える。
「それはペンの線と重なって溶け込んでしまうのさ。影が少しぐらい太くなったってごまかせるよ。いや、あのとき本当は中庭が日陰になっていて、日時計の陰なんてなかったのかもしれない」
「だったらいくらなんでも気がつくわよ」
「……だろうな」
もともとわたしもこの説は違うと思っていた。しかし、こうやって可能性を一つ一つ消して真実に近付いていくのも捜査には必要な手順というものではなかろうか。
「もう一つあるんだ。僕はこちらの方が真相だと思っている。影を偽造するのが無理なら太陽を動かしてしまえばいいのさ」
彼女の驚いた顔。確かに荒唐無稽(こうとうむけい)な言葉である。しかし不可能ではないのだ。
「そんなことできないと思っているだろ。しかし、案外簡単だと思う。大きな鏡さえあればね。つまりね、屋上に角度を調整できるようにして鏡を置くんだ。別に難しくないだろう。そして自分の望む時間に太陽の光が日時計に当たって二時を指し示すようにするんだ。これなら確実にごまかせると思わないか」
「思わないわ」
彼女はあっさりと否定した。
「だってもしそんなことしたら本物の太陽と反射した光で影が二つできることになるじゃない」
「違うんだよ。本物の太陽はもう建物の陰に入ってしまって日光は直接日時計には当たらないのさ。だから影は一つなんだ。建物に囲まれている中庭は、日の当たる時間が少ないと前島自身がこぼしていた」
彼女は肩をすくめた。
「それじゃあますますおかしいじゃない。中庭全体が日陰なのに日時計だけに光が当たっていたことになるわ。そんなロマンチックな情景じゃなかったでしょ。それにこの建物それほど高くないし、今の季節ならあの中庭が日陰になるのは四時過ぎじゃないかしら」
わたしの推理はあっさり瓦解(がかい)した。こんなに荒唐無稽で魅力的なトリックが真っ向から反対されるとは考えていなかった。
「実際に見に行きましょうよ」
中庭に出て、改めて問題の日時計を見る。
相変わらずその影は正しい時間を指していた。
白峰さんは静かな口調で言った。
「まず、油性ペンで影をごまかすという可能性を検討しましょうか」
わたしは首を振った。
「いや、いいよ。どう考えても無理だ」
「じゃあ、鏡が屋上にあったと仮定してみましょうか」
「こうして実際に見れば一目瞭然だ。そんなことでごまかせるわけがない」
あこがれている人の前で良い格好をしようと、懸命に考えた屁理屈をそのあこがれの人から否定され、己の浅はかさを知らされるだけとなった者の惨めな気持ちが誰にわかるだろうか。それを知るのはきっとこの世界でわたしだけだ。そしてそれだけで十分だ。
「そうね……」
彼女は目を伏せた。なんだか、そのまま消えてしまいそうな感じだった。とても悲しそうだった。
美しい花に囲まれたこの小さなオブジェに、いったいどんなトリックを仕掛けることができるというのだろうか。
もうわたしには日時計の時間をずらす他のいかなる手段も思い浮かばなかった。
そのとき、背後から高笑いが聞こえた。
振り向くと前島が立っていた。どうやらいまの会話を聞いていたらしい。
「まったく、柿原は推理小説を読むのは好きなようだが、実際に考える方には回れないようだな。白峰さんの方がよっぽど探偵向きじゃないか」
わたし達はその様子をじっと見ていた。彼は得意げな表情で腕を組んだ。
「で、どうだい?僕がどのような手段を使ったかわかったかな」
実にあっさりと聞いてきた。何もかも知っているような口調だ。わたしは内心驚きながら、しかし、これは彼からの挑戦なのだと思い、平然と答えた。
「わからないけどね。そのうちきっと見抜けるさ。君は僕達をこの家に招いて、何等かの細工をしたんだ」
そして警察に疑われる羽目になったのだ。
彼の目が笑っている。こんな状況なのに、穏やかな表情だった。
「そうだな。そう言えなくもない。僕は確かに時間を動かしたんだ。是非その謎を解いてくれよ。どう、白峰さん」
白峰さんは首を振った。
前島は溜息をついてみせた。
「やれやれ、せっかく苦労したのにな。残念ながら君達には……」
前島の言葉は途切れた。わたしも彼の視線に気がついた。
白峰さんが泣いていた。
「トリックなんてどうでもいいわ。時計の時間をごまかすなら針を動かす。日時計ではその針が動かせないんだから、どうせこの文字盤が回転するようになっていたんでしょ。ただそれだけよ。それよりわからないのはどうしてあなたが私達を利用できるかってことよ。久しぶりに会えて本当に喜んでたのに。あなたは友達を自分の利益のために利用するような人だったの?それとも私達はあなたにとってその程度のものだったの?」
彼女の涙にわたしもうなだれていた。つい先ほどその友達を追いつめるべくひどい推理を並べたてていたのだ。
それにしても回転する文字盤とは。思いつかなかった。
前島は、と見ると彼も少なからず動揺している。わたしになんとかしろと目で訴えかけている。しかし、原因は彼にあるのだから知った事ではない。
「わかった。俺が悪かった。な、な?泣き止んでくれよ。まったく、ツメのあまい探偵だなあ。文字盤が回転?そんな奇妙な仮説は試してから言ってくれよ。ほら、文字盤と台座は一体成形だ。回るわけないだろ。だからさ、俺のアリバイはちゃんと成立するってことなんだよ。ほら、柿原、お前何か言うことがあるだろ。ここに電話してきた時の俺の声の様子とかさ」
「え。声?」
わたしは混乱しながら考えた。
「どうだったよ、俺の声」
「なんだ?そういえばいつも元気なかったな」
「そうだろ?な、白峰さん、俺が君の家に電話した時はどうだった?」
彼女は泣き顔のまま答えた。
「……別に、元気だったけど」
「だろ?考えてみるとおかしいだろ。それから、ほら、柿原の家に最近かかってきた中で溌剌(はつらつ)とした声の奴がいただろ?」
なんだか必死に生徒を導く教師のようだ。わたしは考えた。
「……誰だろう……この件に関してというと……」
白峰さんが声を上げた。
「まさか!刑事?」
その言葉でわたしははっとした。
前島は満足げにうなずいた。
「そうそう。そこまで考えてほしかったな。俺のか細い声と刑事の元気な声の対照的なことに気がつけば後は簡単だろ」

つまりはそういうことだった。何もかも前島の考えついたシナリオで、ミステリ研でやってみたかった『犯人当て』の計画をたて、その探偵役として我々を招待したのであった。
結局のところ、どの時計の針も正確な時間を指していたのだ。刑事が彼のお芝居であったとすれば、もともとあの二時のアリバイなんてものは存在しなくてもいいのである。
日時計が絶対であり、我々が彼のアリバイが本物であるということに気がつけば、今度は電話でしか登場しない警察が怪しいということになり、仕組まれた芝居に考えが向くことになるだろう、と彼は思っていたらしいのだが、我々はそこまでたどり着けなかった。まあ、負け惜しみかもしれないが、前島のシナリオにも無理があると思う。
その夜は彼の家で再びにぎやかな食事となった。前島は二人にいらない心配かけて悪かったと謝り、我々も期待に添えない推理しかできなかったことを詫びた。いろいろな心配がなくなって、ワインも実にうまかった。またしても楽しい時間を過ごさせてもらった。
次の日、わたし達は駅で別れた。
「また今度行ってもいいかな」
前と同じことを聞くと、前島は笑いながら、
「ああ、近いうちがいいよ。近いうちに来なよ」
と言った。あの書斎の本を読み尽くすまで通い続けると言うと、彼はうなずいた。
しかし、それから三月四月はわたしの勤めている塾にとって(特に事務関係をやっているわたしには)忙しい季節であった。前島の家に行く暇もなかなかできず、休日は疲れはてて寝てばかりいた。いや、それでも白峰さんにはこまめに電話を入れていた。

時間

あっという間に五月の中頃だった。
日曜日。玄関の郵便受けにたまったダイレクトメールをまとめて捨てようと、よれよれになっている何通かの封筒を取り出すと、そこに一通だけ様子の違うものがあった。ペンで書かれた宛名。うまい字だ。
手紙とは珍しい。わたしは封筒をひっくり返した。
前島からだった。
なんとなく嫌な予感がした。
わたしは手紙を広げた。
『柿原へ、なんだか非常に理不尽なことなんだが僕はもうすぐ死ぬ。いや、残念ながら凝った殺人事件に巻き込まれる予定はない。単なる病気だ。
死ぬ前に思い切ったことでもしようと、あのようなバカげたことをやってみたんだが、なかなかおもしろかっただろ。
それはそうと白峰さんとはその後どうなんだ?まさか二人とも結婚していないとは驚きだった。ありゃあもしかしてお前さんのことが好きなのかもしれないぞ。(申し訳ないが、推理とは言えない。あくまで単なる憶測だが)まあ、せっかくだからうまくいくといいな。
まだ死んでないからあまり深刻なことも書けないが、とりあえず例の書斎の本のことを言っておかないとな。あれは全てお前と白峰さんに贈ろう。といってもいきなりあれだけの本を引き取れるわけはないだろうから、本を預かってくれるという便利な業者に預けた。十年分の代金は払っておいたが、その後は知らん。その間になんとかしてくれ。
いつまでもブラウン神父の名を聞くだけで頬が緩(ゆる)む愚か者でいるなら、持ってて損はしないと思うぜ。
それにしてもあの頃が一番自由でおもしろかったな。別れの言葉は言わん。人はみな限られた時間を持っているというだけのことだ。君はそれを大切に使ってくれ』
手紙を読みながら様々な思いが頭の中で渦巻いていた。何故『近いうちに来なよ』と言う彼の言葉の通りにしなかったのかと悔やまれた。
ベッドに寝転がってわたしは長い間その手紙を眺めていた。
前島が例の騒ぎを引き起こした本当の理由は、鮮やかな思い出となっている大学時代を再現するためだったのかもしれない。彼もわたしと同じように学生時代が一番楽しい日々だったのか。
そのうちに前島の台詞の中でよくわからなかった言葉を思い出した。『僕は確かに時間を動かしたんだ』と言っていた。実際には日時計は動いていなかったのだが、今ようやくその意味がわかる。
動かされた時間は一時間や二時間でなかった。四年以上だ。

目を閉じた。
耳鳴りに包まれる。
かけがえのない友人であった前島の声も姿も、彼の残した想い出の影にゆっくりと溶けていった。

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