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時の影 第2回(文字数4744 無料)

第1回からの続きです

再会


二十一日。新河田から新王線に乗って四十分。前日まではえらく冷え込んでいたが、今日はわたしの心のように空は澄み、太陽が屈託(くったく)のない陽射しを放っていた。これほどの高揚(こうよう)を感じたのは一体いつ以来だろう。
浮かれた気分でわたしは電車の窓の外を見ていた。久しぶりに昔の仲間に会う。職場では誰一人愛好者のいなかったミステリの話で盛り上がるに違いない。もちろん白峰さんも一緒に。このところ新しいブームになっている密室ものを、奴はきっと読んでいるだろう。いくつかの驚くべきトリックの進化についてどう思っているだろうか。
それとは別にやや緊張感もあった。彼女は結婚しただろうか?もちろんそんなことを今更(いまさら)気にしたところで無駄なのだろう。知ったところでどうなるものでもない。
出かける前、鏡の中の相変わらずさえない自分に、もう少し変わっていればなあ、と溜息(ためいき)をついたものだ。社会人になってあるいは精悍(せいかん)さが表情につくかと思っていたが、まだわたしの顔は気が抜けたような相好(そうごう)を保っていた。きっと一生そうなのだ。
卒業してからの四年間を、わたしだけが何の進歩もなく過ごしているのかもしれない。
などと次第に弱気になっているうちに電車は目的地である西崎神宮前に着いてしまった。
ホームに降り立ったわたしは白峰さんの姿を探していた。彼女が何時に着くのかは知らなかったが、もしかすると偶然同じ列車でやってきているかもしれない。人々の顔を見て歩いたが、案の定、それは徒労に終わった。
駅の改札をくぐる直前に、わたしは待合室の中に前島を発見していた。
お互い少しぎこちない笑みで小さく手を挙げた。
「やあやあ、疲れたろう。こんな秘境まで呼びつけて悪かった」
「いや、別に。電車にのんびり揺られて良い気晴らしになったよ」
改めて間近で彼を見ると、顔つきが少し変わってしまっていた。頬が痩(こ)けてしまい、なんだか苦労をしているといったふうである。
「荷物を貸したまえ。車が駅前にある。まだ白峰さんが来るまで時間があるから、とにかく一度家に行こう」
外へ出て冷たい風を頬に受ける。昼間だというのに人影もそれほど多くない。駅前の通りには小さなビルが立ち並び、その背後には山々が見えていた。木々が一本ずつ識別できるほど近い。
「すごい田舎でびっくりしたろ?」
ハンドルを握る前島が言う。しかし、わたしの古里(ふるさと)はこんなものの比ではない。
「四日もお世話になって構わないのかな」
「ああ、君さえよければ一ヶ月でもオーケイさ。どうせ一人身だ」
「いや、そうしたいけどそこまで仕事を休めないよ。前島の方はどうだ、仕事は?」
「ああ……今は長期休業中さ」
「ふーん」
ここでそれ以上聞くのも気が引けた。もともとあくせく働かなくても生きていけるのならそれが一番だ。わたしだってできればそうしたい。
山の中腹に建てられた彼の家は想像していたよりずっと立派なものであった。回りには別荘とおぼしき豪奢(ごうしゃ)な家がぽつぽつと建てられていたが、その中でも際だっていた。
玄関に入ってから部屋に案内されるまでわたしは感嘆(かんたん)の声を上げっぱなしだった。わたしと同じ歳でこんな家を手に入れてしまうとは、今更ながら違いを目の当たりにして恐れ入る。前島はそんなわたしに苦笑していた。
「いや、柿原が思った通りに驚いてくれるんで自慢のしがいがあるというものだよ。それから是非見せておきたいのが中庭だ」
この建物は上から見るとロの字型になっており、真ん中の空間が中庭になっていた。芝生とツツジの間を石畳が曲がりくねった道を作っている。彼はあちこちに植えられている木々の説明をしてくれ、わたしは口を半ば開けたままうなずいていた。
中庭の中央には小さな花壇があり、花に囲まれるようにして石造りの日時計があった。丸い金属製の文字盤には蔦のような凝った模様が彫られている。中心からヨットの帆を細くしたような指針が出ており、その影が文字盤の十二と十三の中間を指している。腕時計を見ると十二時三十五分。
「へえ、結構正確なんだな」
「まあね。日時計って格好いいだろ。でもせっかくここに配置したんだけど、ちょっと失敗だったんだ」
「どうして?」
「ここだと四方が建物に囲まれているだろ、だからあまり日が当たらないんだ。ちょっと日が傾くともう時間がわからないのさ。やられたね」
それを聞いてわたしは笑った。日の当たらない日時計は確かにその存在の意味の大半を失ってしまう。ただオブジェとしてあるだけでも、それはそれでいいのかもしれないが。
夕方になると今度はわたしと前島とで白峰さんを迎えに駅へ行った。妙にこわばった面もちでいるわたしを前島はしきりにからかった。
彼の期待通り、電車から出てきた彼女を見てわたしの緊張は一気に高まった。
「久しぶり。四年。長いねえ。前島君、すっかりスリムになったじゃない。柿原君は見事に変わってないけど」
彼女の笑みは相変わらずわたしの心をかき乱す魅力をもっていた。
車の中で彼女はひとしきりわたし達の身辺の質問をした。
「前島君はまだ結婚してないって言ってたわね。柿原君は?」
「え、まだです」
「なに敬語使ってるのよ。それにしてもだめねえ。もしかしてミステリ好きってのはあまり一般人に受け入れられないのかしら」
「そうだ。なにしろ人殺しが起こるのを今か今かと待ち受けてるんだからな」
前島と白峰さんの呼吸のあったやりとり。そしてそれを聞いて笑うわたし。あっという間に昔の雰囲気の中にいた。
「じゃあ、白峰は?」
前島の質問にわたしは固唾を飲んで答えを待った。
「え?結婚してたら真っ先に白峰姓じゃなくなったって言うに決まってるでしょ。私も受け入れられない組よ」
「そうか」
わたしは自分の笑い声があまり大きくならないように気をつけた。

建物に着くと先ほどのわたしの反応を彼女が繰り返した。
夕食がまた豪華なものだった。我々の驚きように、駅前の中華料理屋から出前で頼んだだけだと前島は言った。
「こんな豪勢(ごうせい)な食事は僕だって滅多にしないさ。明日からはパンと水だからね。今のうちに食い溜めしておくんだ」
食事をしながら最近のミステリについての話が盛り上がる。わたしが注目している作家はことごとく二人とも知っているというのが嬉しい。ワインを飲み始めてからは昔の思い出に戻ったりしながら延々とおしゃべりはとぎれなかった。わたしも酔いにまかせてかなり饒舌(じょうぜつ)になっていた。こんなに楽しい食事は学生以来だった。気分よく酔っぱらって部屋に戻るとすぐに泥のように眠ってしまった。

時計

次の日、前島のノックで起こされた。雑用で外へ出かけるつもりだったが、腕時計が見あたらないから貸してくれとのことだった。
「今日は午前中に停電があるからテレビもラジオもつかないが、僕のいないあいだ書斎を自由に見てもらって構わない。きっと退屈しないぜ。それから朝飯は勝手にあるものを食べててくれ」
いよいよ書斎を見ることができる。昨日見せてくれると言っていたのだが、夕食が思いの外長引いてしまったので本日に延期したのである。
ラジオをつけたが沈黙で応じられた。確かに停電だ。部屋には時計もなかった。急に押し掛けた客なので、多少の不便はしょうがないだろう。それに、いつまで寝ていても怒られることはないのだ。
とは言ってもあまり堕落(だらく)した生活になってしまうと、それこそ休暇が終わってからきついので、おとなしく着替えて下に降りる。珈琲の香りが漂う食堂には既に白峰さんが座っていた。コーヒーは停電前に前島が作ったものを魔法瓶に入れておいてくれたらしい。
緊張しながら挨拶を交わす。大きな窓からレースのカーテンを通して照らす朝の柔らかな陽射しの中で朝食を取る。
知り合って八年目にしてようやく念願が叶って彼女と二人きりの食事をした。時間がかかりすぎたという感は否めない。まあ、これが最後だろうけれど、良い思い出になった。
わたしは適当に話題を切り出した。
「前島の奴早くに出かけて行ったね」
と、時計を探すが見あたらない。食堂に置き時計のようなものはないようだ。
「ええ。午後には戻るって。書斎を見てもいいそうだからさっそくお言葉に甘えましょうか」

書斎の扉をくぐってからは二人して驚喜の声を上げっぱなしであった。なんと立派な、そして偏(かたよ)ったコレクションであろうか。壁にずらりと並んだ本の数々。そのどれもが推理小説なのだった。前島が本当に見せたかったのは家よりこちらの方だったのではないか。日本の黎明(れいめい)期の探偵小説や絶版になって久しい海外作家の諸作品など、わたしが名前しか聞いたことのない本達がそこにいた。本当にここになら一ヶ月いたって飽きないだろう。こうなるとどれを読んだらいいのか迷ってしまう。言葉もなく本を次々に眺めては取り出して中を改め、そのうちこれはと思うものを二冊ほど抜き出して折りたたみ椅子を広げて読み始めた。白峰さんも熱心に読みふけっている。ただし、彼女は英語のペーパーバックを読んでいた。たいしたものだ。
目の疲れを感じてふと書斎の時計を見ると午後一時半になっていた。
ちょうどそのとき車のエンジン音が聞こえた。
前島が帰ってきたのだ。
書斎から去りがたいものがあったが、前島の買ってきてくれたサンドウィッチと珈琲で軽く昼食をとった。それから、以前来客があったときに余ったアイスクリームが二つ残っていると、わたし達にふるまってくれた。そうしながらも前島は何やら疲れたような顔をしていたが、浮き足だったわたしは別に気にもとめなかった。
「書斎はどうだった?なかなかすごいだろ」
彼の言葉にわたしと白峰さんは興奮気味にうなずいた。
「まあ、午後もゆっくりと本を読んでていいよ。夜食は近くの店に食べに行こう」
昼食を食べた後、三人で中庭を回った。昨日紹介された花や木の名前が、わたしの頭にこれっぽっちも残っていないことが判明した。例の日時計はちょうど二時を指していた。わたしはその時刻が意外なほど正確であると白峰さんに言った。
前島が声を上げる。
「そういえば今日は二月二十二日じゃないか。二月二十二日の午後二時。一年でこの一瞬しかない貴重な時間だぜ」
白峰さんがあきれたように言う。
「それなら一月十一日の十一時だって同様じゃない」
「ううむ。そうか……まあ、じゃあ、その日も特別扱いだ。スペシャルな時間。大切な日ということで」
彼の妙なこだわりにわたし達は笑いあった。こういった何気ないことがとても楽しい。そう思えることがいかに貴重なことか。笑いながらわたしはそんなことを考えていた。
午後は本を読んで過ごし、夕方には食事をしに町へ出かけた。道が混んでおり、店に着いたときにはすっかり暗くなっていた。白峰さんが手洗いに立っている間に彼は思い出したように礼を言ってわたしに時計を返した。彼の時計は車の中にあったとのことだ。袖をまくると高級そうな舶来物が光っていた。

次の日も彼の家で読書三昧をして過ごした。食事の間は書斎で呼んだ本の感想。その後ではワインを空けながらのミステリ談義が延々と続き、わたし達は学生時代に戻ったようにはしゃいでいた。
まさに夢のような一時であった。
しかし、そのような楽しい時間は瞬く間に過ぎ、休日にも終わりがやってきた。
家を去るときに、また来てもいいかとわたしと白峰さんは意気込んで訊ねた。彼は笑いながら了解してくれた。
「近いうちにおいでよ。できるだけ近いうちに」
何故彼がそこまで『近いうち』にこだわるのかはわからなかったが、異存はなかった。
再会を約束してわたし達は駅で別れた。

第3回に続きます。

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