見出し画像

20240323学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第26章 第2インタナショナルの役割

20240323
『三つのインタナショナルの歴史』
第26章 第二インタナショナルの役割(1889〜1914年)

 第2インタナショナルはマルクス主義的組織として発足したが、1914年8月4日、ドイツ社会民主党が皇帝政府の戦争予算に賛成投票した時を境に、次第に腐敗していった。
 レーニンは言っている。「第2インタナショナルの破産は、過去の(いわゆる『平和的な』)歴史的時代の特殊性の地盤の上に育まれて、この近年にインタナショナルにおいて事実上の支配権を獲得していた日和見主義の、破産である。日和見主義者は、ずっと前からこの破産を準備していたのである。それは、社会主義革命を否定し、この革命をブルジョア的改良主義に密かにすり替えることにより、また一定の瞬間において国内戦へ必然的に転化すべき階級闘争を否定し、諸階級の協力を説法することによってであった。またそれは、帝国主義および祖国擁護の名のもとにブルジョア的排外主義を説法し、すでに『共産党宣言』の中に述べられている社会主義の基本的な真理、すなわち労働者に祖国なしという真理を無視もしくは否定することによってであった。またそれは、万国のブルジョアジーに対する万国のプロレタリア革命戦の必要を認める代わりに、センティメンタルな小市民的見地からの反軍国主義闘争に終始することによってであった。またそれは、ブルジョア的社会主義制度とブルジョア的合法性を利用すべき必要を、この合法性の盲目的崇拝に変えてしまうこと、そして危機の時代において非合法形態の組織および扇動の必要性を忘れることによってであった」
 第1次世界大戦によって第2インタナショナルは反革命的な勢力となり、社会主義にも背を向けてしまった。

[インタナショナルの初期の建設的活動]

 第2インタナショナルが成長し盛んに活動した時期は、世界帝国主義が拡大し、資本主義が大きく伸びた時期でもあった。1914年以前は、戦争と革命が比較的少なく、資本主義体制は安定を保っていた。そのためインタナショナルは、主として組織と教育の活動、すなわち社会党や労働組合や協同組合をつくり活動することに力を注ぎ、階級闘争の雰囲気も比較的穏やかなものであった。しかし、しだいに資本主義的な対立は先鋭化し、ブルジョアジーの役割が進歩的なものから反動的なものに変わっていくと、資本主義は没落へと向かっていき、1914年には資本主義はそれ以上の社会の発展を阻む「枷」となった。

 機械化と資本主義的技術の発展で生産性は途方もなく増大したが、労働者は資本主義世界のどこでも貧困と抑圧の惨めな条件のもとに置かれていた。資本主義の発展は労働者に生活の改善をもたらしはしなかった。その利益の多くは、産業と資源を所有している者の金庫に流れ込んだ。失業者や病人、老人に対する財政上の保護もほとんどなかった。こうした労働者の惨状に対して、社会民主党の日和見主義幹部たちはうわべだけ関心を示し、根本的な問題である資本主義体制を攻撃することはしなかった。このことが、やがて第2インタナショナルの無為無策につながるのである。

 もっとも、インタナショナルは日常的闘争では数々の業績を残した。巨大な経済的・政治的組織を建設したり、賃金・労働時間・社会保険・工場立法・男女労働者の選挙権に関しては、経営者や政府から多くの譲歩を勝ち取った。この背景には、労働貴族に譲歩することにより労働者階級全体の連帯性と革命的精神を弱めようとする大経営主の思惑もあった。大経営主たちは、ビスマルクの社会保険計画の考えにならい、「棍棒とにんじん」を結び合わせた。このことをよく表しているのは、イギリスのロイド・ジョージとアキナスの「新自由主義」、アメリカのセオドア・ローズヴェルトの「進歩主義」、ウッドロウ・ウィルソンの「あたらしい自由」などがある。

 第2インタナショナルは、その運動の領域も拡大させた。第1インタナショナルは西ヨーロッパからほとんど広がらなかったが、第2インタナショナルは全ヨーロッパとアメリカの大部分に広がった。しかし、植民地・半植民地諸国(インド、中国、アフリカ、ラテンアメリカなど)には広がりは見せなかった。これらの諸国の国民が真の指導者を持つには、第3インタナショナルの出現を待たなければならなかった。

[日和見主義の代償]

 数々の業績を残した第2インタナショナルであったが、その代償は「マルクス主義の諸原則の放棄」という恐るべきものだった。指導者たちは目先の目的を達成しようとして、社会主義という最終的な目標を捨ててしまった。第1インタナショナルの期間はマルクス主義の科学的な分析と綱領が作られたが、第2インタナショナルの期間にはそれがなかった。そればかりか、マルクス主義とはなんの関係もない小ブルジョア的・日和見主義的な革命主義が幅を利かせた。そのため、世界の労働者は、インタナショナルの完全な崩壊という致命的な代償を払うことになったのである。
 レーニンは、第2インタナショナルの時期に、先頭に立つ似非社会主義者が葬り去ったつもりでいたマルクスとエンゲルスの偉大な諸原則を復活させ、帝国主義という資本主義体制の新段階における労働者が必要とするものに合うようにした。このため、インタナショナルを牛耳る日和見主義的な指導部から強力な反対に直面した。レーニンは第2インタナショナルの公式筋では、「憎まれっ子のよそ者」であった。
 第1インタナショナルは、資本主義との戦いのうちに崇高な最後を遂げ、その後には輝かしい伝統を残した。しかし第2インタナショナルは、腐れ切った指導部によって無惨にも裏切られた。世界社会主義の旗は、新たな、より高い組織の手に、第3の、すなわち共産主義インタナショナルの手に移らなければならなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?