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20240407学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-3 カウツキーへの批判

20240407 [1916年のアイルランドの反乱]  第1次世界大戦中には、ヨーロッパの様々な被抑圧民族の革命的な抵抗が増大した。1916年の復活祭の週にアイルランドで起こった反乱が、最初に起きた反乱としてはっきりとしたものだっただろう。アイルランドは長い間イギリスの支配と搾取に対する闘争を続け、それは700年にも及ぶこととなる。マルクスは、アイルランドの独立運動を非常に重要視していた。それは、抑圧されているアイルランド人だけの問題ではなく、イギリス資本主義に対する全般

    • 20240331学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-2 ツィンメルワルド運動

      20240331 [第1回ツィンメルワルド会議]  1915年7月11日、イタリア社会党はベルンで予備会議を開いた。イタリア社会党は一般的な反戦会議では大政党に利益を与えると考え、自分たちだけの責任で会議を開こうとしていた。その反戦会議が、1915年9月5日から13日まで、ベルン近くの小さな村ツィンメルワルドで開かれた。  この会議には、ロシア、ドイツ、フランス、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、イタリア、オランダ、スイス、スウェーデン、ノルウェーから、38人の代表が出席

      • 20240324学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-1 第3インタナショナルの設立

        20240324 第3部 第3インタナショナル(1919〜1943年) 第27章 ツィンメルワルド運動(1915〜1917年)  第1次世界大戦で、第2インタナショナルは組織的・思想的にいくつかのグループに分裂した。組織的分裂は、同盟国側の党、連合国側の党、さらに中立諸派の党、そして、これらのうちどれにも当てはまらなかったロシアの党に分裂した。思想的分裂としては、右翼、左翼、中央派の分裂が第2インタナショナルで終始問題となっていたが、戦争が長引いたことによってより国際的組

        • 20240323学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第26章 第2インタナショナルの役割

          20240323 『三つのインタナショナルの歴史』 第26章 第二インタナショナルの役割(1889〜1914年)  第2インタナショナルはマルクス主義的組織として発足したが、1914年8月4日、ドイツ社会民主党が皇帝政府の戦争予算に賛成投票した時を境に、次第に腐敗していった。  レーニンは言っている。「第2インタナショナルの破産は、過去の(いわゆる『平和的な』)歴史的時代の特殊性の地盤の上に育まれて、この近年にインタナショナルにおいて事実上の支配権を獲得していた日和見主義の

        20240407学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-3 カウツキーへの批判

          20240317学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-4 帝国主義戦争としての大戦

          20240317 [帝国主義戦争としての大戦]  ボリシェヴィキ、特にレーニンをはじめとする左翼は、第1次世界大戦について、不正で、侵略的で、反動的で、帝国主義的戦争であると主張した。これに反して右翼と中央派は、この戦争はそれぞれの国にとって正義の、民族的な戦争であるとしていた。  レーニンは、1914年9月5日の戦争に関するテーゼの中でこう言っている。「ヨーロッパ世界大戦は、ブルジョア民族主義的な、また王朝的な戦争の特徴を鋭く表している。市場を求め、諸外国を略奪する自由を

          20240317学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-4 帝国主義戦争としての大戦

          20240316学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-3 祖国防衛

          20240316 [祖国防衛]  この戦争を支持するために社会民主主義諸党が掲げたスローガンが、「祖国防衛」というものである。このブルジョア的スローガンを、彼らはマルクス主義と見せかけることに苦心した。「この戦争は民族戦争であり、いまや国民の利益が重大な危機に瀕している。したがって、自分たちが戦争を支持することは正しい」というものである。そして、「攻撃軍が国境に迫っているこの時に、自分たちの祖国も自ら防衛するしかない」とした。彼らはこうした方針を、ブルジョアジーの言葉とほと

          20240316学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-3 祖国防衛

          20240303学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-2 いかにして裏切りは起こったか

          20240303 [いかにして裏切りはおこったか] 1914年7月23日、国際社会党事務局はブリュッセルで会議を開いた。この会議では、労働者会議第104回大会を8月9日に開催することを決定した。もともと第104回大会は8月23日に開くことになっていたが、これを繰り上げた。この大会では、労働者のための国際的に統一した政策を打ち出すことを予定していたが、開催されることはなかった。国際中央組織の弱さと、主だった諸党がこの会議を要求することをしなかったためである。 8月2日、ド

          20240303学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-2 いかにして裏切りは起こったか

          20240223学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-1 第一次世界大戦

          20240223 『三つのインタナショナルの歴史』 第25章 重大な裏切り ── 第一次世界大戦 エンゲルスが予言していたこと。 「1500万ないし2000万もの武装した人間が互いに殺し合う」 これは、第一次世界大戦のことである。 第一次世界大戦は、大資本主義列強の間に積み上げられてきた、帝国主義的諸対立の爆発であった。戦争は、資本主義にとっての本質的なものである。 戦争への直接の引き金となったのは、1914年6月28日、セルビアのサラエヴォで、狂信的なセルビア

          20240223学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-1 第一次世界大戦

          20240127学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-3 第2インタナショナルの右翼と左翼

          20240127 『三つのインタナショナルの歴史』 [世界大戦前夜の右翼と左翼] 第一次世界大戦が勃発したとき、第2インタナショナルにおける重要な諸党のほとんどが右翼分子に支配されていた。ドイツ、オーストリア、イギリス、フランス、ベルギー、そしてスカンジナビア諸国の党である。アメリカなど他の国ではたいてい中央派と修正主義者が提携して支配権を握っていた。が、中央派のクループは右翼との協力を密接にしていった。これに対しレーニンは次のように批判している。「『中央派』は、甘ったる

          20240127学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-3 第2インタナショナルの右翼と左翼

          20240108学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-2 第2インタナショナルの諸勢力

          20240108 『三つのインタナショナルの歴史』 [第2インタナショナルの諸勢力] 第一次世界大戦の前夜に、第2インタナショナルは、22ヵ国の27社会党・労働党を加盟させ、全部で約1200万の選挙民を掴んでいた。ローウィンによれば、主な内訳は次の通りである。 ・ドイツ社会民主党  党員108万5000人 425万票(1912年) ・オーストリア社会党  党員14万5000人 104万1000票(1907年) ・チェコスロヴァキア社会党  党員14万4000人 ・ハンガリ

          20240108学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-2 第2インタナショナルの諸勢力

          20240107学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-1 たちこめる戦雲——バーゼル会議

          20240107 『三つのインタナショナルの歴史』 第24章 たちこめる戦雲——バーゼル大会(1912年) 1910年のコペンハーゲン大会(第2インタナショナル第8回大会)は、次の第9回大会をウィーンで開くことに決めた。1914年8月に開催予定とした。この第9回大会は、第2インタナショナル創立25周年の記念ということで、特別な行事となるはずだった。ところが、国際情勢がますます危なくなってきたこともあり、大会は前倒しで開かれることとなった。国際社会党事務局は、1912年1

          20240107学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-1 たちこめる戦雲——バーゼル会議

          20231229学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第23章-3 協同組合と日和見主義者

          20231229 『三つのインタナショナルの歴史』 [協同組合にかんする日和見主義者の考え方] 戦争反対の決議の他にコペンハーゲンで大きな問題となったのは、階級闘争における協同組合ついてだった。協同組合の役割についての混乱は、第1インタナショナルと第2インタナショナルの歴史を通じて多くの偏向やセクト的な運動の基礎であった。協同組合の誤りの根本には、いつも一つの考え方があった。それは、協同組合が労働者階級の解放にとっての大きな道になるという考え方だった。 レーニンが書いた『

          20231229学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第23章-3 協同組合と日和見主義者

          20231224学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第23章-2 ブルジョア民族主義とのたたかい

          20231224 『三つのインタナショナルの歴史』 [民族主義的労働組合運動] 第2インタナショナルの解体の原因となったのは、ブルジョア民族主義である。各国の党や組合の幹部は、労働者階級の利益よりも自分たちの民族主義的な偏見や政策を優先し、第一次世界大戦を防ぐことができず、そのため第2インタナショナルも崩壊したのだ。 ロシアは多民族国家であり、これはロシアの党と労働者階級にとって根本的に重要な問題であった。この問題を解決すべく、レーニンはプロレタリア政策を作り出した。こ

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          20231210学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第23章-1 コペンハーゲン大会[戦争反対の決議]

          20231210 『三つのインタナショナルの歴史』 第23章 コペンハーゲン大会(1910年) 1910年8月28日から、第2インタナショナル第8回大会が、コペンハーゲンで開催された。シュトゥットガルト大会から3年、この間に軍備は大幅に増強され、戦争の危機も迫っていた。戦争が起こったらどうするか、増大する軍国主義とどう戦ってゆくのか、そうした重要な問題がこの大会を占めた。 植民地主義・半植民地主義諸国の国民の間には闘争が強まっていた。1905年のペルシャ(イラン)での革命

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          20231118学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第22章-2 シュトゥットガルト決議と、アメリカの民族排外主義

          20231118 『三つのインタナショナルの歴史』 [シュトゥットガルト決議] ・大会は、これまでのインタナショナル諸大会が採択した軍国主義と帝国主義に反対する諸決議を承認し、軍国主義に反対する闘争が一般に社会主義をめざす階級闘争とわかちあえないものであることを、ここにかさねて宣言する。 ・資本主義諸国家のあいだの戦争は、世界市場をもとめて各国が競争し闘争することからおこる。なぜならば、各国は、たんにすでに所有する市場を確保しようとつとめるばかりでなく、あたらしい市場を

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          20231112学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第22章-1 反戦は平和のためではない、革命のためだ

          20231112 『三つのインタナショナルの歴史』 第22章 植民地主義と戦争──シュトゥットガルト大会(1907年) 1907年8月、ドイツのシュトゥットガルトで第2インタナショナルの第7回大会が開かれた。出席した代議員はおよそ千人。第1インタナショナルの大会に比べて、インタナショナルは目覚ましく拡大した。大会は、約5万人の労働者のデモンストレーションで幕が開き、全労働者がこの重要な国際大会に関心を示した。 [植民地問題] 植民地問題は大会での基本的な問題の一つで

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