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『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』視聴直後の書きなぐり

※ネタバレを言う

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』は2024年1月26日公開の劇場アニメ作品。
私は本日(1/29)、本作を劇場で観た。

この作品は2002年に放映された連続テレビアニメ作品『機動戦士ガンダムSEED』と、続く2004年の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の直接的な続編だ。人類が宇宙に進出した「コズミック・イラ(C.E.)」という時代を舞台に、遺伝子操作を受けた人類「コーディネイター」と、現生人類「ナチュラル」の対立・戦争を描いたロボットアニメとなっている。

『ガンダムSEED』というシリーズの物語は、『DESTINY』の時点できちんと終われていなかった、というのが多く見られる視聴者の感想だ。この点については私も同意する。劇場版製作のアナウンスは『DESTINY』から数年後の時点でされていたが、特に動きのないまま10年以上の時が過ぎていた。そしてこのほど、シリーズ放映終了から20年近くの月日を経て劇場版が公開されたという運びだ。

本作について思ったことをつらつらと述べたい。

まず、『SEED』シリーズを観ていたことがある、という人は観るといいと思う。『DESTINY』の最後に納得がいかなかった人ならばなおさらそうだ。また、『SEED』という作品に対して、好き嫌いではなく複雑な感情を抱いているような人は観に行ってもいいと思う。本作は2時間あまりの上映時間のなかに、『SEED』シリーズの特徴そのすべてを凝縮している。逆にいえば嫌いで仕方ない人はみるべきでない。また、完全に地続きの作品のため、まったく『SEED』シリーズを観たことがなければ何がどうなっているのかわからないと思う。

モビルスーツ(ロボット)の活劇シーンが見られるという意味で本作は100点だ。モビルスーツの登場のさせ方やギミックなどはとにかく凝っているし、驚きがある。なによりも『ガンダム』シリーズはロボット兵器が活躍するアニメであり、またそれを模したプラモデルやホビーを販売することを宿命づけられている。劇場では上映前にプラモデルなどの販促CMが流れた。これには放映当時に流れていたCMに近いエッセンスがあり、リアルタイムで視聴していた当時の記憶をそのまま呼び戻すような効果があった。

『SEED』は21世紀初のガンダムということもあり、初代『機動戦士ガンダム』(ファーストガンダム)をオマージュした面が多分に見受けられる作風だった。そういった意味で今回の劇場版は、ファーストガンダムでいうところの『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988年公開)的な立ち位置の作品にあるといえる。しかし、私が観た感想としては『逆襲のシャア』のような部分はほとんどなかった。むしろその後に劇場公開された『機動戦士ガンダム F91』(1991年公開)に話運びや設定は似ているのではないかという印象を受けた。

『SEED』シリーズは「ガンダム」シリーズのなかでも話題性が高く、放映当時から毀誉褒貶の激しかった作品だ。
視聴者が感じた『SEED』らしさとはなんであろうか。主人公・キラをはじめとする美少年たちが悩み、葛藤し、最終的には彼らなりの理想や道すじを見つけようとするところ。その理想というのがとても脆く、甘っちょろく聞こえるため作中人物と視聴者の両面から非難されるところ。なかなか暗い作風でもあり、兵器による人間の殺戮描写が強調され、性の描き方も以前の「ガンダム」シリーズと比較すると生々しいところ。細かくあげればキリがないがそうした部分が『SEED』らしさだと私は思う。それらがヒロイックなスーパーロボットが活躍する傾奇なメカ描写と合わさって、アンビバレントな印象を残す。キラも彼が乗るガンダムも戦えばものすごく強いが、その強さにものすごく悩んでおり、理想を掲げはしたものの、はっきりとした答えを出せずに終わっていたのが『SEED』というシリーズだった。だが、劇場版ではそこに正面切って答えを出した。それは「愛」だ。これについては既に視聴者も含めて、誰もみな暗にわかっていたことだった。しかし月日が経ち、ようやく主人公たちは世界と私たちに向かってはっきりと宣言をすることができたのだ。

新キャラクターたちはかなり多いが、その退場の仕方は容赦がない。彼らは、先に述べたようなキラたちの理想や在り方への批判を行う役割を担う。ある意味踏み台にされているとも見え、哀れに思えるし、上映時間の都合上彼らの背景は想像に任せるしかない部分がある。また、キャラクターが多いことと、主人公たちの勢力以外の対立・力関係はテレビ版を視聴していても若干理解が難しい。事情が込み入っているというよりは、展開が早く、色々詰め込みすぎという点に尽きると思う。

それでも、もともとテレビ版から居たキャラクターたちはこの2時間あまりの尺によくこれだけ、というほど登場しており、みなそれぞれ何かしらの印象を残すシーンが用意されている。こうした点で、テレビ版のキャラクターの現在を見たいという人も満足できるだろう。避難する人々のなかに、『SEED』の作中で主人公たちと袂を分かったカズイの姿を見た瞬間、私は得も言われぬ気持ちになった。また、戦艦ミネルバのアーサー副長が妙にひょうきんな描写になっていたが、彼はテレビ版でもそんな人物だっただろうか?なんにせよおもしろかった。

ガンプラ販促CMが流れたところで、「ああ『SEED』って当時もこういう宣伝抜け目なく行ってヒットしている感じだったなぁ」と思い起こさせられた。
そこから大量破壊兵器とモビルスーツによる高速戦闘、生身の人間への殺戮、性愛、色恋、戦闘狂の敵チーム、コズミック・イラの妙に日本風な文化風俗、悩むキラ、理想を掲げるラクス、突っかかるシン、そしてなぜか三枚目になるアスラン…と『SEED』らしさを一気に畳みかけられた。覚悟して観にいったが、ここまで『SEED』的な要素をそのままにしているとは思わなかった。

とはいえ、何もかもがそのままだったわけではない。これまで『SEED』が描いていなかった部分が、本作で検討された。それはラクスの理想と存在に対してカウンターを入れたことだ。キラやアスランらの理想や主張に作中でカウンターが入れられたことはあっても、彼女の理想に対しては無かった。だからこそラクスはある種聖人化し、視聴者からはそれを信じる人物たちが彼女を妄信しているように見えかねなかった面がある。その理想の崩し方にしろ、また崩れてからの立ち直り方にしろ、少々強引なやり方ではあったものの、ここに検討が入れられたか否かは大きな違いだ。彼女はこれまでも決して真剣さを欠いていたわけではないが、ここにきて無意識に居た安全圏から引きずり降ろされたのだ。

そして、終盤ではシリアスな戦場でまるでギャグのような戦闘が行われる。これはテレビ版『SEED』がある程度スーパーロボット的なガンダム像を提示したとはいえ、まだリアルロボットとしてのガンダム世界を堅持していたことを思うと、完全に振り切った演出だ。戦力差とはモビルスーツやパイロットの能力ではなくラクスへの愛であるといったキラ、戦場の只中でパートナーと見つめ合ってエネルギーを回復させ、さらに心中の情念を具現化させたシン、自身の思考を読める相手への対処法として恋人の妄想をすることで乗り切ったアスラン。およそリアルロボットとは言いがたいこうした描写は本作の最終的な回答である「愛」のためにある。それは本作の序盤から五月雨式に描かれてきた恋の鞘当てのようなシーンからいささかも変わらない。

主人公勢はギャグのようなハジけきった愛で戦いを挑み、敵方はいたってシリアスに愛を求めて散っていった。彼らの今際に現れたガンダムの姿とは、はたして彼らを救う大権現だったのだろうか。


(2024/01/29)記事公開
(2024/01/30)一部文章表現の修正


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