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戦前政党政治の功罪⑧ 政党政治に自ら引導を渡した立憲政友会

 昭和6(1931)年5月15日、海軍の青年将校を中心とする一団が首相官邸などを襲い、犬養毅首相(立憲政友会=政友会)を「問答無用」で殺害しました。いわゆる5.15事件です。
 この事件は、その直前にあった血盟団事件と一対をなすもので、テロによって国家改造を或し遂げ、天皇を頂点にいただく社会主義的な国家を建設しようという目的で行われました。
 教科書的にいえば、この事件で政党内閣が断絶し、大東亜戦争敗戦後まで復活することがなかった、ということになります。しかし、いわゆる「軍国主義」が政党政治を葬ったというのは、事実の一面のみを見た結果論にすぎません。実際には、犬養内閣崩壊後も、政党内閣に戻るチャンスはあったのです。それを政党政治家自身が閉ざしてしまったことをなぜ教科書は指摘しないのでしょうか。
 犬養の後、政友会総裁になったのは鈴木喜三郎でした。「憲政の常道」の原則に従えば、犬養首相が現職のまま亡くなったので、次期首班は鈴木となるはずでした。しかし、当時キングメーカーであった最後の元老・西園寺公望は、穏健派の斎藤実海軍大将を指名したのです。右翼のテロが続発する世相をかんがみ、挙国一致の政策を期待したからでした。 `
 斎藤は組閣にあたって、政友会、立憲民政党(民政党)の両党から閣僚を迎え、文字通り、挙国一致内閣を組織しました。これに対して「憲政擁護」の声は政党人の間から起こらなかったばかりか、政党政治に辟易としていた国民も大きな支持を与えました。組閣直後の『大阪毎日新聞』の社説は「国民の声が促した挙国一致内閣の誕生」と題し、政党内閣よりもむしろ斎藤内閣の誕生を歓迎しています。
 昭和9年7月、斎藤内閣は帝人事件のあおりを受けて総辞職しました。今度こそ政友会内閣の復活かと思われましたが、組閣の大命はやはり穏健派の岡田啓介海軍大将に下りました。すねてしまった鈴木は、岡田からの援助の要請を拒絶し、政友会から入閣した床次竹二郎、内田信也、山崎達之輔を党議無視で除名にして、岡田内閣との対決姿勢を鮮明にしました。
そして翌年、「天皇機関説」事件が起こります。当時、憲法解釈の定説だった美濃部達吉の「天皇機関説」を「不敬」だと決めつけた菊池武夫貴族院議員の幼稚な糾弾を利用して、これを「思想上の問題」としたのは、政友会の戦術でした。このやみくもな倒閣運動により、政党政治家の思考は完全にストップしてしまいました。何と衆議院は、政友会、民政党、国民同盟が共同提案した「国体明徴決議案」を満場一致で可決してしまうのです。
 美濃部を擁護していた岡田内閣も圧力に抗しきれず、「国体明徴声明」を出すに至りました。それでもその内容は、決して「軍国主義」的なものではなかったのです。右翼テロが横行する「非常の時局」に際して、心を一つにしようという趣旨のものでした。しかし、これは、国民を束ねるために、天皇に主権があると暗示することで、議会政治の形骸化を助長する結果を招くことになりました。
 政権ほしさに、議会政治そのものを理論的に支えていた「天皇機関説」を鈴木政友会が攻撃し、政党が一致してこれに同調することで、政党政治復活への道は閉ざされました。当時の政党政治家に、「軍国主義」を批判する資格などありません。なぜなら、政党政治にピリオドを打ったのは、五・一五事件を起こした青年将校ではなく、軍部の圧力でもなく、政党政治家自身だったのからです。

連載第135回/平成13年1月17日掲載

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