見出し画像

なにわの近現代史Ⅱ⑩ 阪神タイガースの生い立ち

 最初のプロ野球球団は「読売巨人軍」ではない、と言えば驚かれるでしょうか。実は、巨人が結成される昭和9(1934)年より以前にもプロ球団は存在していました。もっとも、現在のセントラル、パシフィック両野球連盟のチームということでは、巨人を嚆矢とします。
 その巨人の永遠のライバル「阪神タイガース(結成当時は大阪タイガース)」が誕生したのは、翌昭和10年10月のことでした。愛称は、阪神電鉄社内の公募で決まりました。当時、日本一だった阪神工業地帯の球団ということで、アメリカ最大のエ業都市にある大リーグ球団「デトロイト・タイガース」の名前にあやかって、「タイガース」と決まりました。
 後に監督となる松木謙治郎、若林忠志、初代ミスタータイガース・藤村冨美男、さらには伝説スラッガー・景浦将など豪快なメンバーが顔を揃えた球団創立記念試合は、翌昭和11年4月19日。甲子園でのダブルヘッダーに連勝し、幸先の良いスタートを切りました。
 その年の秋、巨人との間で初の日本選手権3連戦が行われました。結果は1勝2敗。3連投した不世出の名投手・沢村栄治の前に涙をのみました。
 その直後から、阪神ナインは打倒・沢村に燃えました。沢村の球速を想定してプレートの2mも前から投手に投げさせての猛特訓。その甲斐あって、昭和12年の日本選手権では、4勝2敗で巨人を下し、初の栄冠に輝きました。そして翌年は、巨人に4連勝して連覇を達成しました。
 戦火の時代を経て昭和21年、中断していたリーグ戦が再開されることになりました。しかし復員してきたタイガースの選手はたった9人。当初、補欠選手は、電鉄本社の野球経験者を動員するという状態でしたが、俊足好打の呉昌征がノーヒットノーランを演じるなど、全員野球の自転車操業で、この苦難の時期を乗り切りました。7月16日には、打撃ベストテンに、タイガースの選手が7人も名を連ねていました。あるスポーツ紙記者がこれを「阪神ダイナマイト打線」と名付けました。
 昭和22年には戦後初の優勝。翌年には、神宮のスター・別当薫が入団しました。慶応ボーイで、見るからにエリートの別当に対して、「物干し竿」と呼ばれた長いバットを振り回す、野武士のような藤村は、ライバル意識をむき出しにしました。両雄並び立たず。この「悪しき伝統」は小山正明と村山実、江夏豊と田淵幸一、掛布雅之と岡田彰布へと引き継がれたと言われます。
 昭和25年の2リーグ分裂の際に、若林監督以下、別当ら主力選手が新チーム・毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に引き抜かれると、タイガースは、昭和37、39年まで優勝から遠ざかります。その後は常勝巨人をあと1歩まで追いつめながら9連覇を許し、昭和60年に吉田義男監督の下、西武ライオンズを倒して、ようやく、初の日本一となります。
 その後再び低迷の時代を経て、野村克也監督がまいた種を育てた星野仙一監督が花を咲かせ、さらに岡田監督時代にも一花咲かせましたが、日本一には届きませんでした。
 関西人の筆者も、プロ野球に興味を持った時からの阪神ファンでしたが、矢野燿大監督の下、今年こそタイガースがペナントを奪回し、そして2回目の日本一を実現してほしいと願っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?