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戦前政党政治の功罪⑥ 金解禁のシナリオを破壊した世界大恐慌

 昭和4(1929)年7月、昭和天皇に叱責されて総辞職した田中義一(立憲政友会)内閣に代わって、浜口雄幸(立憲民政党)内閣が成立しました。
浜口は蔵相に元日銀総裁・井上準之助を迎え、金の輸出解禁、つまり「金解禁」の断行を政策綱領に掲げていました。それは、国際金本位制に復帰するということを意味しました。
 第1次世界大戦前まで、世界は金本位制によって経済のバランスをとっていました。金本位制の下では、各国通貨の価値は金に裏付けられていたので、為替相場は安定していましたが、開戦後、各国は金本位制を停止しました。これによって為替相場は不安定になり、様々な問題が生じていました。
 浜口内閣が成立した当時、わが国を除けば、世界の主要国は全て金本位制に復帰していました。世界の経済体制再建のなかで、わが国が後れをとらないためには、金解禁は避けて通れないと考えた浜口は、国際協調という観点からも、その政策を行う決意をしたのです。一方関東大震災などのために、わが国の予算は国債への依存を高め、借金が膨らんだことで、円の国際的な信用が低下していました。金解禁には円の国際的な信用回復という意図もありました。
 財界もまた金解禁を求めていました。大戦で潤った産業界はその後、経営の合理化を怠り、日本製品は国際的に割高となって、この当時は慢性的に入超気味でした。金解禁を実施すれば、金の流出=通貨貨縮小→デフレ→物価下落→国際競争力強化→金の流入→通貨拡大→景気回復、と一時的にデフレにはなりますが、最終的に景気回復をねらうことができます。またデフレに伴う緊縮財政は、軍縮につながることも意味していました。

金本位制の仕組み

 ところが、浜口内閣成立面後の10月24日、ニューヨーク・ウォール街で株価が大暴落し、アメリカは空前の大恐慌となりました。しかし、浜口内閣は公約通り、翌年1月10日に金解禁を断行しました。ニューヨークのできごとは一過性のものだと誰もが思っていました。歴史に名を残す世界大恐慌になると予想した人はいませんでした。
 一方、国民も金解禁を支持していました。政府は予想されるデフレのショックを和らげるため、解禁前から国民に緊縮生活を、ラジオやレコードを通じて訴えてきました。国民は、金解禁によって最終的に景気が回復すると信じていたので、2月に行われた総選挙で与党・立憲民政党は大勝し、立憲政友会から第一党の座を奪っています。
 景気回復のために、デフレを忍んで金解禁。誰もがその効果を信じていました。ところが、金解禁実施後の3ヵ月で、1億5千万円分以上の大量の金が流出しました。それにともなって浜口と井上が描いたシナリオ通りに通貨は縮小しました。しかし、世界恐慌はその後の予想を大きく狂わせました。各国の物価も大幅に下落し、日本製品の国際競争力は強くなるどころか、かえって弱くなりました。その結果、すさまじい大不況(昭和恐慌)が襲ってきたのです。
 不幸なことに、政党政治家がリーダーシップをとって行った政策が、結果的に大失敗に終わったことで、国民の政党政治への失望感は高まりました。この失政は、国民が間もなく短絡的に軍人を支持するようになる原因のひとつは、ここにあったのです。

連載第133回/平成12年12月27日掲載

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