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「カリフォルニアで教職に戻る」の巻

■突然のリクルート
 2004年3月末、旅先に1本の電話が入った。人材派遣会社からである。こちらに来て約1年。学生生活にピリオドを打ち、有難い日本での就職話をお断りして、暫く米国に居続けることを心に決め、さて何をしようか、と考えていた矢先のことであった。
 「西大和学園で、4月から働ける社会の先生を募集しているんですが、龍泉寺さんがぴったりだと思い、レジュメを見ていただいたところ、是非面接したいというお話で」。
 「でも私は、4月1日にしかLAに帰られないんですよ。新年度には間に合わないですよね」。
 「ああ、そうですかぁ」。
 話はこれで終わると思っていた。ところが、すぐにまた電話がかかってきた。
 「それでも構わないそうです」。
 あとでわかったのだが、西大和では非常勤講師を公募していたが、条件に見合う人があらわれず、時間割編成が暗礁に乗り上げていたのだ。人材派遣会社によれば、私立日本人学校はどこも、ちゃんとした教員を見つけるのに難渋しているとか。
 私は中高の社会の教員免許がある。能力の程は定かではないが、 日本の公立高校で15年間教壇に立ってきた。余りにも条件がぴったりだったようだ。
 校長面接は、カタチだけのものであった。
 「先生に断られると、どうしようもないんです」。
 土曜の補習校では正教諭として3科目を4クラスで、さらには平日に授業を行う日本人学校の方も、1科目を週3時間。しかも、それを3日に分けてほしいというキツい要請…。
 だが私は、教壇を離れても、ずっと教育のことを考えていた。特に、教育内容・教材開発という自分の専門の分野に関しては、これまでの経験を何らかのカタチで残すなり、新たな開発をするなり、研究は続けようと考えていた。そういう欲求を持っていたので、これは海外における日本人教育という、新たな分野を開拓するチャンスになると考えた。「時間割編成は、非常勤講師が優先じゃないの?」。かつての教務の経験から、そうも言いたかったのだが、結局、午後はフリーランスの仕事もできるように、1時間目だけに授業を入れるという条件だけ出して、この話をお受けすることにした。

■黙っている日本人
 ところで、カリフォルニア州は、米国の中でも、特にリベラル派の鼻息が荒いところである。大きい声を出した方が勝ちという、似非平等主義が色濃い社会である。逆に言うと、大声を発さないと、何も起こらない。そういった面で日本人はおとなしすぎて、「公共サービス」の面で随分損をしているように思える。それは、対米国社会という側面だけではない。日本の政府やマスコミなどに対してさえ、何も言わない。
 在米日本人の多くは、数年の駐在員生活を終えたら、また日本に帰るからか、こちらで日本人・日系人のために何かしようとする人は殆どいない。日本語の本や雑誌を読み、日本語放送や最新のドラマのレンタルビデオを見て、日本人の多い住宅地に住み、日本人だけと付き合う。日系スーパーで買い物をし、外食は日本風の居酒屋。夜はカラオケに行き、休暇には日本の旅行会社のツアーに参加する。
 しかし、新参者の私に言わせれば、日本語放送や情報雑誌の驚くべき日本語能力の低さと、低俗な内容、さらにはその技術力の低さには、怒りさえ覚えるほどなのだ。にも拘らず、殆どの日本人は無頓着で、文句も言わず、ボイコットもせず、その情報のみに頼っている。
入れ替わり立ち代りやってくる、結構な数の駐在員が、自分の経験をもとにして、在米日本人の置かれている立場が改善されるよう、各方面で声を大にすればよいのに、と思うのだが、そういう話は聞いたことがない。彼らはキャリア組の公務員の如く、高給をもらって、何も言わずに数年間だけここで暮らし、そして日本に帰って行く。

■総領事館が消した小東京の灯
 さて、LAの総領事館は、ダウンタウンにある。平成5年までは、かつての日本人街、リトル・トーキョーにあったのだが、移転反対運動は無視され、引っ越してしまったらしい。今の総領事館は、立派なビルの一室で、安全面では良いのだろうが、車の便は最悪だ。
 ご承知の通り、LAは車中心の街である。意外なことに、市内のバスの運行本数は全米最大だというが、日本人が多く住むサウスベイ地区からは、やはり車でないと総領事館に行くのは難しい。その条件は、リトル・トーキョーと同じなのだが、駐車路料金が段違いなのだ。LAはパーキングメーターで路上駐車できる場所が結構あるが、総領事館の周辺は皆無。結局、リトル・トーキョーあたりの安い駐車場などに止めて、バスで行くという二度手間になる。 
 居留民が行きやすいところに在外公館はあるべきではないか。外交官とて公務員だ。特権階級ではない。ましてや、在外公館は、居留民が選挙の投票にも訪れる場所である。自分たちの利便だけを考えて、引っ越してしまったとすれば、外交官が自分の立場を、忘れてしまったと、言われても仕方がない。
 しかも、リトル・トーキョーは寂れゆく一方で、古くから住んでいる日本人の間では、もはや消滅の日も近いのでは、との懸念さえ囁かれているくらいなのだ。総領事館の引越しは、リトル・トーキョーの灯をさらにひとつ消したのと同じだ。居留民を守るどころか、日系社会全体にダメージを与えたようなものなのだ。
 LAには世界最大の韓国人街・コリア・タウンもあるが、居留民の数やハングルの看板が掲げられている面積はもちろんのこと、そのエネルギーは、完全に日本人を凌駕している。もちろん、韓国総領事館はコリア・タウンの目抜き通り、ウィルシャー・・ストリートにある。

■ズレている在羅日本人の感覚
 一方、JTB、近畿日本ツーリストなどの日系旅行会社では、ダウンタウンからサウスベイ地区への引越しが大流行だ。前述のとおり、サウスベイは駐在員が多く住み、もともとトヨタなど日系企業も多いところだ。差し詰め、通勤事情のみ(サウスベイからダウンタウンへの自動車通勤は、地獄である)を考慮して、引っ越したようだ。もちろん、高騰するオフィス家賃も言い訳にはなるだろうが。
 しかし、旅行客へのサービスが売り物の旅行会社が、なぜ肩を並べて引っ越す必要があるのだろうか。日本で言えば、本店を丸の内や新宿から、ベッドタウンの郊外へ移転させたような、奇怪な現象だ。
 大手ではHISが、ライバルを尻目に、ダウンタウンど真ん中のホテルにラウンジを新設して、サービスを強化している。昼間でも車で半時間はかかるサウスベイにオフィスがある会社と、ダウンタウンに社員が常駐している会社と、どちらを選ぶか。私なら当然後者を選ぶ。
 駐在員の話でも、この旅行会社の話でもわかるように、こちらにいる多くの日本人(日系人ではない)の常識は、どこかズレている。日本を離れた理由が、集団主義がイヤだったからだ、とか言いながら、とかく群れたがる。ところが支那人や韓国人のような団結力はなく、浮き草のような集まりを作る。そして、ともすれば仲間の足を引っ張り合う。
 歯がゆい思いをするのは、不惑を過ぎてここに来たからなのかもしれない。先輩の「移民」に聞くと、若い日本人が留学でこちらに来て、そのまま長くいると常識が通じなくなる。或いは、常識を知らぬ間に、オトナになってしまう、ということだった。
 そういうヘンな日本人たちが生んだ、ズレた文化を軌道修正することは、自虐史観を修正するのと同様、容易なことではなさそうだ。
 よし! それなら、生徒は少ないが、せめて彼らにニッポンの常識を教壇から大声で叫ぶのは、私の務めではないか! 
 かつて私が教員になることを志した動機は、「たったひとりであったとしても、真実の歴史を教えたい」、ということだった。教壇復帰の原動力は、「ニッポンの常識を教えよう」になった。思いは壮大だ。とまれ、この異国の地で、自分の経験を生かす場所を与えられたのは、本当に有難い話である。
 という訳で、4月から、この広いLAで蟷螂の斧を振りかざし始めた。その成果や如何? 
 以下次号。乞う、ご期待…ということで、この連載は始まったのだった。

 『歴史と教育』2004年11月号掲載の「羅府スケッチ」に加筆修正した。

【カバー写真】スペースシャトル・チャレンジャー号の事故で殉職した、エリソン・オニヅカ大佐を記念する「オニヅカ・ストリート」。リトル・トーキョーにある。通り沿いのモールは、みやげ物店が撤退して寂しい限り。右後方の摩天楼はLA市庁舎。(撮影筆者)


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