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「カリフォルニアのど真ん中にある和菓子屋」の巻

 その店は中央カリフォルニアの中心都市、フレズノ(Fresno)のダウンタウンの外れにある。
 フレズノにはかつて2本の旅客鉄道が走っていた。北側にサンタフェ鉄道の駅。こちらが今はアムトラックの駅となっている。南側にサザンパシフィック鉄道の駅。こちらは面影こそ残しているが旅客扱いはしていない。その代わり、廃駅のすぐ近くには、貧乏旅行の友・グレイハウンドのターミナルがある。ダウンタウン中心部はそれらの鉄道駅からやや北西に位置する。
 その店は南側の駅、すなわち廃駅からすぐのところにある。1930年代頃の面影を感じさせる小さな小さな旧支那人街の中にある。
 地元の人に聞くところによると、その旧支那人街、そうはいうものの、日系人や欧州系の人々も住み、名ばかりだったということ。アメリカのチャイナタウンによくあるChop Suey(アメリカにしかない支那料理の名。野菜炒めのようなもの)の看板と怪しげな漢字が並ぶ建物が、まぁ、旧支那人街なのかなぁと思わせる程度だ。
 寂れた旧市街の商店街には仕舞屋もちらほら。そこに、その和菓子屋があるのだ。冒頭の写真がそれ(2007年11月13日撮影)。外観では和菓子屋には見えない。
 人が少ないからホームレスが目立つ。この写真を撮ったころ、パーキングメーターが撤去されて2時間まで駐車自由になった。
 それだけを見れば、炭鉱が閉山になった日本の田舎町にもありそうな光景だ。しかし忘れてはいけない。ここはカリフォルニアのど真ん中だ。
 確かにフレズノは、かつては日系人の街であったが、今はやはりヒスパニックが増殖している。そしてその街に、手作りの和菓子屋さんが実在しているのは驚きではないか。
 その店の名は、Kogetsu-Do(湖月堂)。
 アンティークな塗の箱には、確かに「和菓子」は並んでいたものの、小物や日本の洋菓子も並び、雑然とした感じである。日本の商店街にある和菓子屋とは多少イメージが違う。

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 しかし、ラップに包まれた餅の中には、草餅まであるではないか。さらには薯蕷饅頭を思わせるトラディショナルな紅白饅頭。
 この果てしなく広がる畑の中に浮かぶ、中途半端なアメリカの街にはふさわしくない恐るべきミスマッチ。
 白い餅の中で、粒餡、こし餡、白餡のものには表示がないのだが、英語で「餡」の種類が書かれたものがある。

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 「ラズベリー」、「チェリー」、「アプリコット」とフルーツ餡が豊富にある。さらには、フルーツとアーモンドバターのコンビネーション、チョコレートをそのまま餅の中に入れてくるんだものと、「和菓子」の常識を覆すものが並んでいる。イチゴ大福をはじめ、フルーツ大福の存在は日本にもあるが、ここにも生フルーツ大福は並んでいた。
 とりあえずチェリーを食べてみる。
 口の中で餅が溶ける。明らかに求肥だ。しかもかなり柔らか目。そのほのかに甘い求肥の中からあふれ出るチェリーの果実とソース。パンケーキやワッフルにかかっているあれだ。
 うまい!
 アプリコット、ラズベリーと立て続けに試してみたが、どれもこれも、今までの和菓子にはない触感と風味だ。これはミスマッチではない。すばらしい発明だ。
 古い店内をよく観察すると年代モノのレジスターがある。

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 店主のリンは、「そんなに古いもんじゃないわよ」と言ったが、十分アンティークだ。餅や饅頭が行儀よく並んでいる塗りの箱は、やはりこの店の歴史を物語っている。湖月堂が和菓子屋だったのだと再認識させられる。
 「何で湖月堂っていう名前なの?」と聞くと、
 「死んだおじいちゃんに聞かないとわからないわよ」とリンは笑った。
 検索してみると、長崎、福岡、千葉、三重など各地に同名の和菓子屋は存在するがそれと何らかの関係があるのだろうか。
 日系人の歴史は、彼らの不幸な強制収容所体験もあり、次第に忘れられていく傾向にある。しかしその一方で、こういった有形無形の日本文化が生き残っている。そしてそれを何とか残すことが、一番アメリカに同化している移民と言われる日系人にとっても、そしてひいては日本の国益にとっても重要なことではないかと思うのだ。
 その店の名は、湖月堂という。

拙ブログ『無闇にアメリカに来てはいけない』より「その店の名は…」(2008年01月07日10:13付)に加筆修正した。


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