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アジアと日本の歴史⑨ 満州国と汪兆銘政権~その歴史的意義


 日本は、アジア各地に傀儡国家を作ったといわれます。その代表格が、昭和7(1932)年に成立した満州国と、支那事変中の昭和13年に成立した中華民国南京政府、いわゆる汪兆銘(精衛)政権です。
 満州国は、満州事変の結果建国された国です。中国の顔色を窺う歴史書などでは、わざわざ括弧付きで「満州国」と書いているものまでありますが、本当に馬鹿げたことです。
 建国時に清朝の宣統廃帝・愛新覚羅溥儀が執政に就任し、後に皇帝に即位します。溥儀は日本軍の匿われていたこともあり、まさに傀儡(操り人形) として引っぱり出されたかのように思われています。彼自身も、戦後、共産党の思想改造キャンプを出所後に発表した自伝の中では、日本軍の言いなりだったかのように書いていますが、実は溥儀自身、かなり復位に対して色気があったのです。満州国は、ラスト・エンペラーの野望と、関東軍の思惑が一致していたと言っても過言ではないでしょう。また満州人の間にもナショナリズムは当然あり、満州の独立を願った人々がいたことも事実です。なぜこれを無視するのか、疑問を禁じえません。
 もちろん、国務総理(首相)や各部(省庁)長官には現地人や支那人を充てながら、次官などに日本人を配置するやり方は、傀儡政権だと言われても仕方がない部分ではありますが、当時欧米が世界中で保持していた植民地行政と比べれば、特別に非難される性質のものではありません。わが国による満州支配は、そのスマートでないやり方が問題だったのです。また、志士気取りの大陸浪人など、怪しい人物が中国や満州を闊歩していたことが、日中・日満関係を複雑にしていました。
 しかしながら、欧米の反日的なマスコミも、日本の支配により満州が格段の進歩を遂げ、特に都市計画や治安や衛生などの民生面で大きな成果を挙げたことは認めています。また満州国のスローガンであった「五族協和」は、真面目に追求されており、今日の中国による少数民族弾圧のようなことは一切起こっていません。
 一方、汪兆銘は、孫文の正当な後継者として歴史上に登場しますが、共産党も国民党も、彼を日本軍と協力して傀儡政権の首班となった大漢奸として今日に至るまで非難しています。しかし、彼は傑出した政治的指導者でした。蒋介石が1936 年の西安事件で、それまでの方針を転換して、共産党との合作を宣言してからも、汪は「日本と戦うべきではない」という孫文以来のテーゼを守り通したのです。そして、日本の和平工作に乗る形で重慶を脱出し、日本占領下の南京で新政権を発足させました。
 しかし、汪の弱点は、軍事力を持たないことでした。それゆえ、日本軍の力に頼らざるを得ず、彼の政権は傀儡政権という印象を拭いきれなかったのです。結果を見れば、日本と戦ったことは、蒋介石にとって大失敗でした。漁夫の利を得たのは、毛沢東率いる共産党でした。汪の考えていたように、日本との妥協を優先し、反共統一戦線を結成しておれば、その後の歴史は変わっていたでしょう。
 満州国や汪兆銘政権を「傀儡政権」と断じてしまうのは簡単なことです。しかし、その実像を検討することなくレッテルを貼ってしまうことは、歴史の真実から目を背けることになるのです。

連載第41 回/平成11 年1月26 日掲載

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