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キム・ミレ監督映画『狼をさがして』

 軽く衝撃を受けている。
 映画の中で語られることが、ほぼわからなかったからだ。もちろん言葉としては理解できるが、なにか違う世界の出来事のようで、どう受け止めてよいのかわからない。こんなにわからないとは、思ってもみなかった。

 東アジア反日武装戦線のことはほとんど知らない。けれど昔、わたしが小学生のころ、日帝の侵略と植民地主義、そして戦後の新植民地主義を批判して三菱重工を爆破したテロ事件があり、たくさんの死者が出て、大道寺将司さんという死刑囚が素晴らしい俳句を残して刑務所で亡くなられているということくらいは知っていた。
 私自身も日本の過去の侵略と植民地主義の責任を問う活動を行い、戦後の無反省と新植民地主義の醜悪さを憎んでいるので、彼らと共感できるところもあるのだろうと思っていた。けれどこうやって映画館を出て、本当にとまどっている。
 共感できなかったから。

 キム・ミレ監督についていえば、韓国のスーパーマーケットのパート労働者の闘いを撮ったドキュメンタリー映画『外泊』がとても好きで、DVDを買って何度も見るほど好きで。だからこそよけいに思う。韓国のパート労働者の闘いには共感できて、なぜ狼には共感できなかったのだろう。

 入り込めなかった原因はいくつか思い当たる。
 まず、言語。70年代の活動家の言語が、どうも私の耳を上滑りする。意味はわかるけれど、肌に入ってこない。
 闘争の結果、たくさんの人を「日帝の中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者」と規定し殺してしまったという過ちを総括するとき、なぜあのような硬い言語でしか語れないのだろうかと思った。すごく正しいことを言っているし、おそらく私の上の世代には共感できるのだろうけれど。
「東アジア武装戦線の戦いに最も欠けていたのは、いま現在から革命後の社会を、物的に、人的に、思想的に、あらゆる領域から作っていく創造の戦いとして考え、実践することだった(…)。敵を打倒し、破壊することよりも、味方を増やし、味方の力を育て、作り出す戦い方をしたい。それは『もう誰も死なさない革命』でもあるはずです」(浴田由紀子)

 大道寺さんの俳句は、映画中に出てきた浴田さんの文章と違って、まだ柔らかい。けれど、それに共感できるかと問われれば、それは違う。私は涙のひとつも流せなかった。

 《加害せる吾が背に掛かる痛みかな》

 秀逸とは思えど、私は共感にまでは至らない。涙のひとつも流せない自分が哀しい。なぜだろう。

 あれこれ電車の中で思い巡らせた挙げ句思いついたことは、私は人を殺していないということだった。
 殺していないのは当然としても、自分の思想のために人を殺そうと思ったこともない。個人的な憎しみのためなら殺したいと思うかもしれない。けれど、思想のために、闘争のために殺そうと思ったことがない。

 もう少し突っ込んで考えてみる。
 私たち日本人のことを「日帝の中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者」と規定することに、私はためらいがない。新自由主義社会になってこれだけ格差が拡大し絶望的な貧困がある現実になってから少し考えを軌道修正したが、私は80年代後半のバブル期に大学生活を送り思想形成した。日本の安価なエビを養殖するために東南アジアのマングローブ林を伐採し、フィリピンからはジャパゆきさんと呼ばれる女性を輸入する。当時はアジア中に軍事独裁政権があり、日本の商社は独裁者と懇意にして儲けまくっていたし、そのおこぼれの結果の「一億総中流社会」だ。私の目には明らかに、日本人とは「植民地人民の血で肥え太る植民者」だった。
 でも、そんな自分の思想のために、あるいは闘争のために、殺そうと思ったことはない。「植民地人民の血で肥え太る植民者」を。
 植民者であり男性である自分は、死ななければならない存在だけれど。
 と、ここまで書いて、はたと立ち止まる。
 彼らは、自分を殺そうと思ったことがあるのだろうか、と。

 大道寺さんの強烈な加害者意識は疑うべきもない。自分自身をアイヌモシリを侵略した植民者の末裔と規定し、「われわれはその日本帝国主義者の子孫であり(…)すべての問題はこの認識より始めなくてはならない」という提起からもそれは明らかだろう。そして私はその提起に、100%同意するし、現実に私自身の行動の基本でもある。
 彼らは闘争を貫く過程で、自らの加害者性を払しょくできるの考えていたのだろうか? わからない。そう考えていたようにも思えるし、そんな「勘違い」をしているわけはないとも思える。東アジア反日武装戦線という呼称には、なぜ冠に「東アジア」とつけたのか、ただの「反日武装戦線」では駄目だったのかという疑いを、私はどうしても覚えてしまう。けれどあの強烈な加害者意識は、安易な考えを容れないだろうとも思う。本当のところは書かれたものを読めばわかるのかもしれないけれど、映画からはわからない。
 だって植民者が殺されなければならないのであれば、まずは殺されるべきは自分自身ではないか。と、私は思ってしまう。

 そして人を殺めて獄中にあって、その贖いきれない罪と反省を背負って、どのような総括をしたのだろうか。「誤りと失敗を克服する闘いを行っていく」……わからない。言葉ではわかっても、その本当の意味するところが分からない。背負う重みが、想像を絶する理解できない。だって、私は自分の思想や闘争のために人を殺したこともなければ、殺したいと思ったことがないのだから。わかるわけがない。
 それを理解してみたいという気もするが、そのために払わなければならない膨大な努力をする必要があるだろうかと問われれば、正直言ってそれも疑問だ。

 しかし私がこの作品を見てそんなことを思い悩んだとて、「植民地人民の血で肥え太る植民者」は過去かつてなかったほど、傲慢な差別主義者となっている。日帝が侵略戦争を遂行するために作ったレイプセンター(慰安所)に誘拐監禁された女性たちのが1000回にわたって路上で闘い続けたことを記念する平和的で崇高な銅像に対してさえ、植民者たちの多くは悪意を隠そうとせず、「国際法違反だ」とかつての植民地国の態度を罵る宗主国気取りの無能な政治家を支持し続けている。
 こんな時代、私は知らない。以前は自分を反日と呼ばれることに忌避感があったが、いまではそれでもいいやと思ってしまう自分がいる。
 どうすればいいですか? 爆破して何人か死ねば、植民者どもの考えは改まりますか?
 そう考えた時、彼らの気持ちにとても共感する。そんな気持ちになるときもある。マイト一発轟沈させたくもなる。けれど、残念ながら、改まるわけがない。
 私が植民者という地位を返上するために、わたちたち日本人みんなが変わらなければならない。あまりもの変わらなさに絶望もするけれど。
 私は私のやり方で、反日を貫きたいと思う。孤高な狼になりたいわけじゃない。

2021年5月18日擱筆


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