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小諸なる古城のほとり 

懐古園

 長野県の東部にある小諸市、その玄関口小諸駅。今はしなの鉄道の主要駅であり、八ヶ岳高原線で知られる小海線の長野県側の起点となる。かつては特急の停車駅であったが、新幹線の停車駅からは外れてしまった。かつての小諸藩の城下町を思い起こさせる魅力的な街である。島崎藤村が教師として6年ほど過ごしたとされ、伊藤深水、高浜虚子、永六輔、小林亜星などが太平洋戦争時に疎開した。

 小諸駅から数分の場所に懐古園という場所がある。小諸城址に美術館、動物園、児童遊園地などのレジャー施設がいくつか連なる、大正15年に近代公園として整備された総合観光スポットである。

小諸城は日本唯一の穴城。近くに浅間山、千曲川などの自然を利用した要塞であり、穴城とはお城の城郭が庶民が住む城下町より低い位置にあるのが特徴で極めて珍しい。桜が有名で酔月城とも呼ばれる。城郭の位置が独特で、これは攻めにくいと想像する。

 小諸城は1487年に大井光忠が鍋蓋城を、子の光安の代には乙女城を築いたのが元とされる。1554年に武田信玄は本格的に信濃攻略を開始する。この時に鍋蓋城が落城、大井氏は滅亡したと伝わる。
 信玄はこの地を重要と考え、鍋蓋城と乙女城を併せて小諸城を築城する。この後小諸城の城主は目まぐるしく変わる。
 武田勝頼が討たれると、信玄の甥、武田信豊は小諸城に撤退するが、武田より小諸城を預かる下曾根に裏切ら殺害され、織田軍に降伏する。小諸城は織田軍の滝川一益の配下に入る。
 信長が本能寺で討たれると北条氏政が攻め込み、一益は伊勢国に逃げ、城主は依田信蕃となる。小田原征伐で北条氏が失脚すると、依田氏は徳川に従い関東へ移る。代わりに仙谷久秀が入城する。
 久秀が城と城下町を整備し、現存の元を作ったとされる。
 徳川秀忠が真田氏に上田城で苦戦する間、小諸城で足止めを食って関ヶ原の戦いに間に合わなかったという失態は有名だ。
 江戸時代は何人かの徳川譜代大名が城主となり、この地の重要性を示す。
 明治の廃藩置県で城郭は藩旧士族へ払い下げられ、本丸跡に懐古神社が祀られ、懐古園となる。1926年に近代的な公園となる。
 戦国の世を幾多の武将たちと戦い抜いた小諸城も今は自然を楽しむ観光客や市民の憩いの場所となる。
 美味しいお蕎麦もお洒落なカフェも楽しめる。
【REG's Diary   たぶれ落窪草紙  4月27日(土)】
 
 
 
 

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