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【歴史京都探訪④】清水寺 平安時代から大人気

 誰もが惹きこまれるパノラマと圧巻の本堂の舞台、こんなにストレートで印象的な観光スポットも珍しい。1250年の間、観音霊場として多くの庶民から愛され、源氏物語、枕草子、落窪物語などにも登場する京都を代表する古刹である。
 基本事項のおさらいから。
清水寺  北法相宗の大本山 元は法相宗で興福寺の末寺
     昭和になって興福寺から独立
    (真言宗との二宗兼学や醍醐寺の末寺だった時代も)
     御本尊 十一面千手観世音菩薩 山号は音羽山
     創建 778 年と伝わる 開山 延鎮と伝わる
     国宝の本堂は1633年に徳川家光により再建されたもの

 まず注目すべき点は寺の創建が平安京遷都前だということ。「清水寺縁起」によると、奈良の修行僧の賢心(後の延鎮)は、夢のお告げを受けて北へ向かう。京都の音羽山で清らかな瀧を見つけ、そこで草庵を結び修行をする老仙人、行叡居士に出逢う。行叡居士は賢心に、霊木で観音像を彫り、観音様のお寺の建立を託して東国への修行の旅に消える。賢心は草庵と観音霊地を守ったという。
 それから二年後、鹿狩りに訪れた坂上田村麻呂と賢心が音羽の瀧で出会う。坂上田村麻呂は妻と共に十一面千手観世音菩薩を本尊とする寺院建立に協力し、瀧に因んで清水寺と名付けたとされる。

 坂上田村麻呂は征夷大将軍として、アテルイ率いる東北の蝦夷を征伐したことで名高い。征夷大将軍は、平安時代は東北の蝦夷征伐のための臨時官職だったが、鎌倉時代からは武家のトップとして政治の実権を握る。江戸幕府15代将軍慶喜が最後の将軍となる。

 昨年京都一人旅の時、大谷本廟の辺りから広大なお墓の横をひたすら登って清水寺へと入った。清水寺から大谷本廟にかけて数えきれない墓地が並んでいる。清水寺は外国人や修学旅行生でごった返していたが、その道では殆ど人と会うこともなかった。
 先日のNHK大河で直秀と散楽の一座が殺された鳥辺野という場所はこの辺りのようだ。平安時代の京都の埋葬地として有名である。藤原道長・頼通親子もここで荼毘に付されている。
 当時遺体の処置には苦労したようで、墓に埋葬されるのは身分の高い者だけ、庶民は鳥辺野のような場所に遺体を放置し、鳥葬などが主流だった。穢れの概念や疫病などたいへんな時代だった。
 そんな場所の近くにあった観音霊場だったからこそ、昔から清水寺に多くの人が集まり手を合わせたのだと思う。
 今年も行こうかな。
【REG's Diary   たぶれ落窪草紙  3月11日(月)】





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