見出し画像

日本三大怨霊の一人、崇徳上皇

 怨霊とは自分が受けた仕打ちに対して、スピリチュアルな存在になって、恨みをはらすため災いを与える存在。この存在は生死を問わない。災いの発動を一般的に祟りと称する。この場合、多くの第三者たちが災いの発動を「起こっても仕方ないこと」と受け入れることが多い。一個人が自らの恨みを晴らすために霊的な手法により災いをもたらそうとする呪いとは異なる。

 まだ社会が成熟していない頃、権力や利益を争って、または巻き込まれて非業な死を遂げる人たちが多くいた。私的な利益のために手段を択ばすに排除されていく人物が人望の厚い人物だったり、あまりにえげつないやり方で排除されたケースに対して、人々は同情的な気持ちを持つ傾向がある。私が好きな日本的な思考の一つでもある。
 このような前提において、排除した側の個人や集団に後に災いが起こる場合、人々はそれを怨霊による祟りだと考えて畏れた。この人々の思考や感覚が日本の良心や道徳観念の一端を築いたと思う。

 私の大好きなPodCastの番組で平将門と菅原道真を取り上げていた。まさにこの二人はこの怨霊の代表となる。将門は新王を名乗り朝敵となって討たれるが、民衆を重税から救う意図も見せ、又、一族の争いに巻き込まれた感が強い。道真はあまりにも優秀過ぎて周囲から警戒されたのが左遷の根本にあったと考えられる。この二人に対する処遇に対し人々は不条理を感じていたからこそ、千年以上経っても怨霊伝説は語り継がれる。

 日本三大怨霊に数えられるのは前者の二人ともう一人いる。
 平安末期の崇徳天皇、後に退位して崇徳上皇となる。

 崇徳天皇は複雑な人間関係にあり、父親から生涯嫌われる。

  崇徳の父親は鳥羽天皇で母親は藤原璋子
  母親は崇徳の曽祖父(ひいじいさん)の白河上皇の養子で愛人説があり、崇徳の父親は白河ではないかという噂さえあった
  従って父親の鳥羽天皇は息子の崇徳も祖父の白河も嫌っていた
  この時、白河は法皇として院政の実権を握っている
  崇徳が5歳で天皇に即位、これを主導したのが白河法皇
  面白くないのは父の鳥羽上皇
  ここで白河法皇が崩御、院政の実権は鳥羽上皇へ移る 嫌な予感
  鳥羽上皇は藤原得子を寵愛、後の近衛天皇が生まれる
  本格的に父の鳥羽上皇は息子崇徳天皇の排除にかかる
  徳子との間に生まれた近衛を一旦崇徳の養子にして崇徳に退位を迫る
  子供が天皇になれば、崇徳は上皇として院政による権力を持てる
  近衛が天皇に即位する儀式で急遽崇徳天皇の弟として天皇にしてしまう
  天皇の兄弟は院政をする権限はない
  実権の無いただの元天皇、崇徳上皇となる 崇徳は騙された
  政治の実権を失った崇徳上皇は和歌の世界に没頭し人気者となる
  ここで近衛天皇が若くして崩御
  崇徳には重仁親王(子)がおり復権の可能性が到来するが
  鳥羽上皇の権限で崇徳の弟、後白河天皇が即位 あの後白河だ
  そして後白河天皇VS崇徳上皇の保元の乱勃発
  これに敗北した崇徳上皇は讃岐に流罪となる

  流刑先で和歌と仏教に拠り所を求めて暮らす崇徳
  自らの写経本を京のお寺へ納経することを願い出る
  後白河は呪詛ではないかとこれを拒否

 これで崇徳は大激怒。崇徳は自らの血で「日本の魔王になり、皇族を民に引きずりおろし、民を新たな王とする。」と書いたとされる。髪も爪も伸ばし天狗になったとも伝わる。崇徳上皇は流刑地で亡くなる。

 その後平氏が台頭して皇族をしのぐ権力を持ち始めると、僧兵が暴れ、大火が起こり、後白河の周囲に亡くなる人が増えて、社会は荒れて貴族や民衆は崇徳上皇の祟りではないかと噂し始める・・・。

 平将門、菅原道真、崇徳上皇、タイプは異なるが平安の世から現代まで、怨霊となって人々の心に生き続けている。

【REG's Diary   たぶれ落窪草紙   4月24日(水)】





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?