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子どもから高齢者まで障害の有無に関わらず安心して過ごせる社会をつくる

自己紹介


初めまして!
株式会社H&Hという医療福祉事業を経営している池畑です。
弊社は、横浜市で主に重症心身障害児、医療的ケア児を対象とした放課後等デイサービスなどの通所支援事業、居宅訪問事業などを運営しております。

出生数は毎年過去最低を更新し続け、留まることを知りません。
日本の人口は減り続けています。
一方、人工呼吸器が必要だったり、痰の吸引が必要で医療的なケアを必要としてる医療的ケア児は15年前から2倍に増え、全国で2万人を超えています。

医療が発達し続けている現代において、今後も増え続けていくと言われています。

これらが社会問題となっており、令和3年には
「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律」(医療的ケア児支援法)
が制定されました。

しかしながら、医療行為の呼吸器の管理や吸引などは原則として、看護師や家族に限局されているため、ケアの多くは家族が担っているという現状があります。

障害が重度であればあるほど、家族の負担が増え、
・寝られない
・自分のしたいことができない
・きょうだいと関わる時間がない
・働けない
など、色んな感情を抱えながら自分の子どもだから一生懸命ケアをしているのが現状です。

その問題を解決すべく、弊社では医療的ケア児を中心にお預かりする施設を複数店舗運営しており、今後は拡大をしていくことで事業を通して社会問題を解決していくために様々な取り組みをしています。

そんな私たちが作り出したい社会は

「子どもから高齢者まで障害の有無に関わらず安心して過ごせる社会」

です!

なぜそんなことになったのか?

それは私の原体験があります。

兄が障害を持つことになる

私には2歳上の兄がいました。
兄弟というのは兄の影響を受けるもので、私も例外なく影響を受け、 兄が野球をしていたことがきっかけで小学校1年生から野球を始めました。
あっという間に兄より上手くなり、中学では全国大会に出場するほど、青春時代を野球一筋で過ごしました。
高校に入ると部活で忙しくなり、5時に家を出て、23時に帰宅するような生活でした。
そんな日々を過ごしていた高校1年生の冬、私にとって人生の転換期となる出来事が起こりました。
いつもは遅い帰宅でしたが、その日は早く家路に着きました。
その時に家の電話が鳴り、両親も不在のため出ることがほとんどない電話に出ました。警察からの電話で、兄が交通事故にあったという知らせでした。
両親に連絡を取り、両親は病院へ、私と妹は家で待っていました。
夜になっても両親から連絡はありませんでしたが、警察からの「心配しなくて大丈夫」という言葉を鵜吞みにし、大丈夫だろうと思っていたので就寝しました。
そして、夜中に父から連絡が入り、急いで病院に来るように言われ、タクシーで兄が搬送された病院に向かうと、そこで見たのは意識のない全身管に繋がれた兄の姿でした。
医師からは「覚悟して欲しい」と言われましたが、なんとか一命は取り留めることができました。
そして、何度も手術を繰り返し、事故から3か月を過ぎた頃にようやく意識が戻りました。
そこから兄のリハビリが始まりました。
約2年間入院生活でのリハビリを経て、私が高校3年生の夏に兄は家に帰ってきました。
ちょうど部活も終わり、今後の進路を考えていかないといけないという時期で、兄のリハビリする姿を見ていたこともあり、人の役に立てるという思いから理学療法士を志すことにしました。
専門学校に入学し、国家試験にも受かり病院に就職しました。病院に就職したのも何か特別な志があったわけではなく、人の役に立ちたいという漠然とした思いだけでした。
兄がリハビリを受けていた当時はリハビリを受ける日数制限はなく納得するまで入院できましたが、私が就職した時には半年しかリハビリを受けられないという制度に変わっていました。
その後もリハビリを受けられる期間がどんどん減っていき、患者様の役に立っているという感覚も薄れていきました。『慣れ』というのは怖いもので、いつの間にか言われたことをただこなすだけの日々になっていたと思います。  
結婚して家族もでき、それなりに不自由のない生活を過ごしていました。
兄は障害が残り、両親の介護が必要な状況でした。
実は兄が障害を持ってしまったことを私は周りにほとんど言うことなく隠していました。
父親が入院中の兄を連れて野球の試合に見に来たときはいつも私は怒っていました。
怒っても怒っても父親は連れてきていました。
それが本当に嫌で嫌でたまらず、障害者の兄を持った環境を恨んでいました。
そんな感じだったので、兄のことはすべて両親に任せて、私は家族とも距離を取って過ごしていました。


長男が1歳になる直前、両親に会わせるため実家に行ったとき時のことです。
この日は珍しく、兄は私達夫婦がいる部屋にわざわざ入ってきて話しかけてきましたが、煩わしさを感じていたため軽く受け流して聞いていました。
それから数日後、急に兄の体調が悪く入院することになりました。
入院先にお見舞いに行くこともなく、1週間ほどで意識がなくなりあっという間に亡くなってしまいました。
葬儀の時には、もちろん悲しさもありましたが、両親が介護をしている姿や両親亡き後は私が面倒を看なければいけないと思っていたこともあり、「これで良かった」と安堵の気持ちがありました。
しかし、兄の友人やお世話になった方々が葬儀にたくさん来てくれたことや両親が悲しんでいる姿に、兄は沢山の人に愛され、支えられてきたのだと感じました。
そして、私も同じように愛されてきたのだと思いました。
『障害があっても無くても、誰しもが価値ある存在である』と強く思いました。
その時に、障害を持った兄の存在を煩わしく思っていた自分を痛烈に恥じました。

障害を持っていた兄も多くのことを周りの人に与えていたのだと気づきました。
一番もらっていたのは私でした。
障害を持っていない時にも
障害を持ってからも兄は私にたくさんものを与えてくれていました。

私はそれに気づかずに過ごしていたということに兄が亡くなって気づいたのです。

障害が有っても無くても人としての価値は変わらない
たくさんのことを周りに与えてくれている

でも余裕がないと人って受け取れないんです。
高校生で多感な時期の私は兄の障害を受け入れる余裕が全くなかったのだと思います。

だから事業を通して、ご家族が余裕を持つことが出来れば、もっとたくさん受け取れるようになると思うのです。

兄のおかげで私はこんな素晴らしい仕事に携わることができています。
そして少しですが人の役に立てる人生を送れています。

兄からの贈り物を受け取った自分は大きく変わりました。

まとめ

ちょっと長くなりましたので、今日はここまで。

こんな思いをこれからNOTEを使って伝えていきたいと思っています。

次回もこのビジョンについて熱く(笑)語りたいと思います!!

できれば週に1度は書いていくつもりです!(今のところ…)

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