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チャレンジすることの意味

新しく挑戦していることがあります。

もちろんこのnoteを書き続けることもその一つではありますが、
今まで、躊躇していたことを、扉を開けてはじめました。

何気なく娘と話していたら背中を押されたことや、たまたま人と話していて情報が耳に入り今がそのタイミングだと思えたからです。

たまたまとかの意味のある偶然にいつもアンテナを張っている方なので、「これは心の深いところでずっと思ってきたことへの何かの導きかもしれない」とそのシンクロを楽しんでいます。

チャレンジしてみて面白いのは、私がしたいと思っていたことは同じような年代の人とあまり会わないということ。
娘と同じような年代の人の中に混ざっている自分です。もともと、いつも年の若い人を教えていたので、自分にとってはあまり違和感なくすんなりと入っている感じです。
まあ、周りからしたら・・・かもしれないのですけれどね。

でもチャレンジするって、不安だし、ドキドキもするけれど、やっぱり面白いのです。うまくできないことが多いけれど、自分の中にある可能性の芽に声に目や耳を傾けることができます。動いたり、行動したりすることで、思考でしかシュミレーションできなかったことが、身体から理解することができます。その、体験型ワクワク感が私は大好きです。

老齢という「老」の字は、本当のところは尊敬し年配者を崇めこうところがあったのですが、現代は「若い」というところに異常に焦点が当たり過ぎていて特に日本人にとっては、老いることが悪いことのようになっています。生命あるものは、「芽生え成長し衰退して滅び再生する」ということが自然の摂理でとても尊いことなのに、無理に若さに止めようとすることにおかしさがあるような気がしています。

ただ、年齢を重ねていくと、身体ばかりではなく、頭も心も硬くなって行くようです。しかし、中には、命尽きるまで柔軟なチャレンジャーの人を垣間見ることがあります。

私は、幾つになっても学びたいと思うのです。
もちろんたくさん恥をかきます。
トントンと上達しないかもしれません。

それでも何かしら目標をもってチャレンジして行くことで生命はずっと育ち続けると思うのです。

若者たちに囲まれて、同じ目線で対等に扱ってもらっての学びはエネルギーが湧いてきます。昔はきっと大家族でそれぞれの役割を果たしながら、お互いのエネルギーを交換していたような気がします。

私には経験から得た知恵という学びの力があります。
狭い分野かもしれないけれど、心の世界のことは随分と深めてきました。
それを何かの形で目の輝きのある若者たちに伝えていく役目はあるような気がします。

50代の人たちが社会で使えない部類に入り、リストラで怯えているニュースをよく耳にしますが、変化が怖いんです。
でも自然はみんな変化しています。人間も変化することで新しいことが産み出されてくると思うのです。
「前例」とか「今までは」とかではなくて、「変化にチャレンジする気持ち」があったならば、新しい一歩に繋がって行くような気がしています。
そこには未知の喜びも楽しさもあると思うのです。

チャレンジすることは命の輝きなのかもしれませんね。

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