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エッセイ:デジタルネイチャーへと変容する情報群

わたくしという人間が紡ぎ出す文章とは、一体どういう営みなのか?

自身の身体や脳から運動神経系に信号が送られ物事のあれこれを書くという

行為とは何か?

普段はあまりにも当たり前なことが、ふとした拍子に疑問を感じる。

そういう瞬間は大抵、ある種の逸脱した体験の後にやってくる。

AIの文章生成を使ってみたが、生成される文章の自然さにある種のショック

を受けたのだ。

そのことから、情報というものは一体なんなのか?知識とは何か?知識とい

うものを大量に保存する者としての「専門家」とは何か?

「専門家」というものは、ある特定の物事に対して長年、経験と知識と洞察

といったものを積み重ねてきたという意味で「時間の集積者」である。

ところが、AIの文章生成はこの時間の集積を簡単にひっくり返してしまう。

ある種の質問を上手に行うことができれば(AIの文章生成では、文章を生成

させるためのコマンドを質問と言わず、呪文(プロンプト)と呼ぶ)、かな

りの精度の文章を生成できる。

もちろん、小説家やプロの文筆家にとっては、AIでの文章をそれと見抜くこ

とは可能なのかもしれない。

イヴァン・イリイチは、手書きで書かれた文章かタイピングで書かれた文章

かどうかは読めばわかると言っている。

情報は本来、場所性と身体性があったはずである。しかし、AIで生成される

それは、まるでお金がお金を生成するように、情報が情報を生成する。

誰かのAI生成でした情報をもとに、他の誰かが文章を生成する。Web上にス

トックされている情報をもとに、それらはどんどん増え続ける。

ある意味で今後、情報は自動的に生成され続ける文章の中から選択的にAIに

質問をして利用をするものとなる。だがその実、その他の膨大な知識群やア

ルゴリズムは誰もわからない、未知のもの、つまりは自然と同じようなもの

になっていくのではないだろうか?

そのような、世界がどういう世界なのか?とうことはわからない。わからな

いが、趨勢として現実はそうなっていくのだと思われる。

さてここで、最近の哲学界隈で「人新世」という地質学を考察する哲学があ

る。そこで再び注目されている哲学者が「人間の条件」の著者ハンナ・アレ

ントである。

もしかしたら、今我々が再考を迫られているのはかつて彼女が問うていた

「人間の条件」そのものなのかもしれない。

さて、人間の条件の序を初めて読んだ時は、なぜ宇宙船が地球を飛び立った

ことを冒頭の話題にしているのかピンこない為に、なかなか内容に入ってい

けなかった記憶がある。

しかし、彼女はテクノロジーというものをどう用いていくのか?あるいはま

た、もう少し突っ込んで言えば、ある種の「理論」や「概念」と言ったもの

をどう用いていくのか?

そういう「使用」に関するテーマを扱っていたのだと思う。そのことは、ア

ガンベン著「身体の使用」を読んだことで触発されたことだ。

まず、彼女の文章を引用する。

与えられたままの人間存在というのは、世俗的ないい方をすれば、どかかから只で貰った贈物のよなものである。ところが、科学者たちが百年もしないうちに造りだしてみせると豪語している未来人は、この与えららたままの人間存在にたいする反抗に取りつかれており、いわば、それを自分が造ったものと交換しようと望んでいるように見える。

人間の条件 ハンナ・アレント

アレントは上記の文章に対して、科学的・技術的知識を今後どう用いていくのかを問うことは第一級の政治的問題だと述べている。
続けて

厄介なことに、現代の科学的な世界認識の「真理」は、たしかにそれを数式で証明し、技術的には立証できるのだが、もはや普通の言葉や思想の形で表現できない。…中略….しかし、私たちは今、地球に拘束されていながら、まるで宇宙の住人であるかのように活動し始めており、そこで本来ならば理解できる事物も理解できなくなるかもしれないし、考えたり話したりすることが永遠にできなくなるということもありうる。そうなると、私たちの思考の肉体的・物質的条件となっている脳は、私たちのしていることを理解できず、したがって、今後は私たちが考えたり話したりすることを代行してくれる人工機械が実際に必要となるだろう。技術的知識(ノーハウ)という現代的意味での知識と思考とが、真実、永遠に分離してしまうなら、私たちは機械の奴隷というよりはむしろ技術的知識の救いがたい奴隷となるだろう。そして、それがどれほど恐るべきものであるとしても、技術的に可能なあらゆるからくりに左右される思考なき被造物となるであろう。

人間の条件 ハンナ・アレント

アレントの上記の引用を読むと、想起されるのはフーコーの生政治・生権力

だろう。

AIは役に立つ。私もAIを使ってみてとても楽しいし面白いと思った。

役に立って楽しいとなれば、これは浸透するだけでなく、今後の私たちの生

活に大きく影響していくのだろうと思ったのである。

とまれ、それだけに生かす権力としての実効性の能力は卓越しているとも思

われる。

AIや科学技術に己の思考を依存することで、私達はフーコーのいう「従順な

身体」としての存在へ加速度的に変化してゆき、アレントのいう「思考なき

被造物」と化してしまうのだろうか?

そのことを問うてみる時が来ているのではないだろうか?

とはいえ、時代はアレントが生きた時よりも進み、テクノロジーの進化は彼

女の生きた時代を遥かに進んでいる。

フーコーの"微視的権力"はすでに"ニューノーマル"な状況である。

つまりは、スマホでAIに誰もがアクセスできる時代とはどのような時代なの

か?と問うことだ。

デジタルなものが増殖し、ただそこにある存在として変容していく。デジタ

ルネイチャー(落合)が当たり前の世界とはどんな世界なのか?

そのことが、チャクラバルティも問うている人間の条件の再考に他ならい。

アレントは言論は政治の本質に他ならないと述べている。

そうであるならば、「もはや普通の言葉や思想の形では表現できない」とい

うこのアレントが述べた限界を超えていく必要があるように思われる。

すなわち、新しい”ことば”が要請されているのである。

【沈黙・弱さ・歌い踊る身振り、あるいは谷の風】

記述・ストックされていく情報に対して、語られないことば、沈黙のことば

をも射程に入れることが要請されている。

沈黙されることばは、大抵の場合、はずかしさがあるものだ。アガンベン

は、「アウシュヴィッツの残り物」の中で「はずかしさ」について述べてい

るが、とりわけAIの文章生成に触れてみて、そこには知識を網羅しようとす

る人間の欲動を感じた。そのことが、余計に「はずかしさ」といった感情を

引き立たせるのだ。並外れて”網羅的”なものに対しては、はずかしさと言っ

た感情を忘れてはならないのではないだろうか?

ところで、沈黙のことば、とは沈黙させられていることば、あるいはまた積

極的に沈黙していることば、でもあるかもしれない。

フーコーの微視的権力やアレントの政治力学は優れて世界を記述してきた。

しかし、記述されるエクリチュールとは、書かれるべきであるとされ、ある

いは承認された上で書くことを許されてることば、ではないだろうか?

そのことを、ジェームズ・C・スコットは「ゾミアー脱国家の世界史」の中

でこう述べている。私たちの知る歴史は「文字をもつ平地民の歴史」に過ぎ

ない、と。

この本は、東南アジア大陸部の歴史を従来の国家史の観点からではなく、平

地国家から山地へ逃避したものどもの視点から描き直した挑戦的な視座であ

る。

スコットによれば、山の民は奴隷や徴兵・徴税されることを嫌って山に逃げ

てきたが、彼らに歴史がないわけではもちろんない。

書いていないだけのことなのだ。あるいは、もっと突っ込んで言えば、平地

国家に属していない民のことばは沈黙されられてもきていた。当然、平地国

家にとって見れば認められる存在ではないからだ。

誰が主権国民として認められるのか?を決定するのは主権権力の権能そのも

のである。そう述べたのは「例外状態」のカール・シュミットである。そこ

から、アガンベンは著書「ホモ・サケル」で法の外にありながらも、主権権

力によって”例外状態”を決めるられる形象としての「剥き出しの生」を描い

ている。

そのことを踏まえれば、山の民もまた主権権力の権能の圏域なのかもしれな

い。

これらを踏まえて、最後にいくつかの道を想像して終わろうと思う。

農業史家 藤原辰史は著書「分解の哲学」の中で「なぜ食べる方が「上位」

で食べられる方が「下位」なのか?」と問うている。

この本は通常、我々が何かを計画したり、作り上げたり、”完成”させたりす

ることを重要視する視点を逆転して「分解」、壊れゆくという視座からの見

方を提示してくれる。

さて、「小さきものたちのオーケストラ」の中で「狩猟の物語では、食われ

るものがみずから語らなければ、食らうものがつねに英雄となる」という諺

が出てくる。

我々は、たった一人で独立独歩、生きることに挑まなければならないと思い

こみ過ぎてはいないだろうか? だがしかし「共生」という言葉ではあまり

にも綺麗事に過ぎやしないかとも、どこかで思っているのではないだろう

か?

であれば、「小さきものたちのオーケストラ」チゴズィエ オビオマ著の表題

がすでに示しているように、必要があれば集まって、何事か必要なことを、

好きなように述べ、結論や目的を超えて、オーケストラのよに“声”と”音”を

響かせる事に重きを置こうと思うのだ。

既成のセオリーや概念、知識のストックなどからも離れて、自由に流れる生

の音にこそあたらしい言葉の息吹はあるのではないだろうか?

最後に、ジブリ映画・ゲド戦記の著者:アーシュラ・K・ル=グウィンのエ

ッセイ「小説 ずだ袋理論」から引用を

今まで語られてきた「英雄物語」が、役目を終えようとしているのではないか、そう思うことがあります。その前に、新たな物語を語り始めた方がいいと考える人もいます。そうかもしれません。しかし困ったことに、私たちは皆、「殺人者の物語」の一部になってしまっているのです。「英雄物語」が終わることは、私たちも一緒に終わりを迎えることになるかもしれません。だからこそ私は切実に、もう一つの物語、語られていない物語、「生」の物語、それを描くにふさわしい本質や主題を探しているのです。

アーシュラ・K・ル=グウィン 世界の果てでダンス ずた袋理論より

ジブリ映画の原作を紹介したつながりで

風の谷のナウシカ

グウィンの「もう一つの物語、語られていない物語、「生」の物語は「谷の

風」に耳をそば立てることから始まるのである。

【参考書籍】

ハンナ・アレント著「人間の条件」

凡庸な悪という現代の悪の本質を炙り出したアレントにとって、「人間の条件」とは何か?を問うことは他でもないもう一つの可能な生に進むべき課題とし当然の帰結だった。仕事、労働、活動という有名なカテゴリーはAIによって、奪われる仕事が増大していく中で再考をしておくべき問題群だ。

ジョルジュ・アガンベン著「ホモ・サケル」

「剥き出しの生」は今や、我々自身である。衒学的な文体で読者を惑わせるが、安易な理解へと誘わない身振りがアガンベンの面白いところだ。「ホモ・サケル」シリーズの第1巻。最終巻の「身体の使用」とも併せて読みたい。

ジェームズ・C・スコット著「ゾミア―― 脱国家の世界史」

平地民の文字文化、と言う視点が面白い。対比して、スコットは山の民の視点から歴史を見直そうとする。民衆の言葉による歴史は具体的なものだ。それゆえ、力がある。日本では「山びこ学校(岩波書店)」がそれにあたる。あるいはまた、約7000の島をもつ群島の国としての日本で、群島からの咆哮を宣言した、今福龍太「わたしたちは難破者である(河出書房新社)」も併せて読みたい。なお、同作者「反穀物の人類史」もエキサイティングな歴史へと読者を誘う。


藤原辰史著「分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考―(青土社)」

農業史と言う視点から、哲学をする。西洋の哲学や西田幾多郎などの日本人哲学者とも全く様相が異なる。いわゆる、典型的な哲学書ではない。が、それだけに脅威の面白さだ。「なぜ、食うものが「上位」で、食われるものが「下位」なのか?」と言う問い。最終章:3・食い殺すことの祝祭と合わせて、深く思考していきたい。


チゴズィエ・オビオマ著「ちいさきものたちのオーケストラ(早川書房)」

我々の傍らには、あなたを見守る守護霊がいる。個人として、個人が所有する意志としての「責任」を問われる現在。そういった世界観は割と最近のものである、そのことを、懐古主義に陥らずアップデートしていくには?國分功一郎著「責任の生成」などと合わせて考えると面白いのかなと思いました。

アーシュラ・K. ル=グウィン著「世界の果てでダンス」

ゲド戦記の著者。フェミニズムの旗手。エッセイスト。さまざまな顔を持つグゥイン。「後ずさりしながら、前方を見る」と言う諺はアメリカ先住民のものだ。そういった、身振りはグゥインの思想を一貫して貫いている。あるいはまた、ポール・ヴァレリーも「我々は、 後ずさりしつつ未来に踏み入っていく」といったフレーズを残している。上記、懐古主義でもない身振りとはそのようなものではないだろうか。世界の果ての、誰も見ていない場所で、それでも、自分のやるべきこととして、ダンスを踊るのだ。


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