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#01あなたの神は誰? by Paulette Kelly

”すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。 民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。”
列王記 第一 18章38~39節

私が神学校にいた時のことです。ある教授がアメリカ人宣教師たちの経験を話してくれました。それは、

ーある大陸で福音を伝えるように導かれた宣教師らがジャングルの奥深くに住む部族のもとへと赴きました。彼らはその部族の言語を学び、エデンの園の物語を伝え、そして神の救いの計画について説きました。ところが、誰もイエスを受け入れようとしません。いったいどうしたことかと宣教師たちは途方に暮れました。それでも部族と共に生活を続けた彼らは、ある日、部族がなぜ福音を受け入れないかを理解したのです。

それは、部族の文化では「策略を企てる者が英雄」であると考えられていたのです。ですからこの部族は「蛇」がまことの「神」だと理解していたのです。ー

 イスラエルの民の不従順のため神は3年半にわたって雨をお与えになりませんでした。神は民の心をご自身に向けさせるため預言者エリヤを用いました。それは、エリヤが呼びかけたカルメル山での「バアル vs 神」の対決で実現します。その決戦によりどちらが「まことの神」かが明らかにされました。人々は地に伏して叫びました、
「主こそ神だ!主こそ神だ!」

偶像とは無害な石のかけらにすぎな いのでしょうか? 
 --いいえ。
 
 バアル崇拝は危険でしょうか? 
 --はい。非常に危険です。

 マタイの福音書で、イエスはサタンを「ベルゼブブ(Beelzebub)」と呼び「バアル・ゼブブ(Baal-Zebub)」(ペリシテの神の一つであり悪魔)と結びつけています。旧約聖書のバアルたちは、神々に偽装した悪魔に過ぎなかったのです。そして、すべての偶像崇拝は究極的には悪魔崇拝なのです。

「私はクリスチャンで、教会に行っているから、偶像を崇拝していない」
と”、思っているかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?

 黙示録ではイエスが偶像崇拝をどのように見ているか、そしてそれが実際に何であるかを明らかにしています。次のように記されています。

”エペソにある教会の御使いに書き送れ。右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる─。
わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。またあなたが悪者たちに我慢がならず使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 だからどこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。”
黙示録2章1-5節

黙示録2章1-5節

   エペソのクリスチャンたち(現代のトルコ)は神を愛していましたが、彼らの生活の中には神よりももっと愛しているものがありました。「神が最も重要」という位置を脅かすものは何であっても偽の神またはバアルなのです。

 ジャマイカで私にとっては「名声」が「バアル」となっていました。私が教えた生徒たちは多くの大会で優勝し政府の奨学金を獲得しました。私の教えていた私立学校の親たちは、自分の子供が私のクラスに入るために何年も待っていたと言いました。そんなに尊敬されることは私にとって実に気持ちの良いことでした。私は、疲れやストレスを感じるたびに、自分がどれだけ尊敬されているのか思い返すようになりました。やがて、それが私の人生で最も重要なものになりました。

 あなたにとって、人生で最も重要なものは何ですか? あなたの両親ですか?配偶者ですか?子供ですか?友人ですか?仕事ですか?自宅ですか?スマートフォンですか?
自分自身ですか?

 さあ、あなたが「バアル」を礼拝していないか神に尋ねてみましょう。もし「あなたはバアルを礼拝している」と示されるなら、悔い改めて、まことの神が誰であるかを確認しましょう。

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