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雨の日の午後

 数週間前に寝室の窓に見た、大きさ二、三センチの虫が、出窓のカーテンの裾にしがみついて死んでいるのを、さっき見つけた。
 わたしは虫が怖いので触ることができずに、見つけた死骸はそのままにした。からからに乾いた虫の横で、わたしは失くしたチョーカーのチェーンを静かに探していた。時々その黒い影に目をやりながら、そうか前に見たあの虫は死んだのかと思った。
 虫は窓から入ってきて部屋に閉じ込められて、生きられなかったのだ。寝室には水もないし食べ物もない。あるのはわたしの山ほどの洋服と、アクセサリーだけ。数週間、じっと呼吸だけを繰り返して、終にわたしのアクセサリーボックスの横で虫は息絶えた。そう思うと、そのことが少し、わたしの機微を揺らした。
 結局チョーカーのアジャスターチェーンはいくら探しても見つからなかった。わたしは諦めて、今度手芸屋さんでパーツを買ってきて夫に直してもらおうと思い、ボックスの蓋を閉めた。虫の死骸はそのままにして、わたしはリビングに戻った。
 今日は夫の仕事が休みで、外では朝から雨が降っている。テレビをつけたまま、夫はスマホでSNSを見ている。わたしはその隣でこの文章を書いている。
「数週間前に寝室で虫を見たって言ったじゃん。あなたに言ったら、虫なんていないって言ってたけど。さっきね、それ見つけた。死んでたよ」
「ふーん」
「あとで片付けてきてよ」
「あとでね」
 そんな会話を夫としながら、わたしはソファに寝転ぶ。
 虫はいたんだよ、あなたは虫なんていないって言っていたけれど。虫は確かにいた。そしてその虫は死んだよ。わたしのピンク色のジュエリーボックスの横で。
 雨は窓の向こうで規則的に降り続いている。強くもならないし、弱くもならない。テレビではジャングルに住む生き物の話を語っている。わたしはベーグルを焼いて食べて、コーヒーを飲んだ。
 あの虫はいつ死んだのだろうか、と思いを馳せる。どれくらいの時間、生きるためのものが何一つない部屋で生きていたのだろう。そんなことを考えながら、わたしはテレビに映るカバを見ていた。
 わたしは生きている生きている。虫は死んだ。わたしは生きている。そしてコーヒーを一口飲む。
 あとで窓から外へ、夫に虫を移してもらおうと思った。雨は降り注いで、死んだ虫の体を濡らすだろう。
 わたしはといえば何もせず、乾いた虫が濡れゆく様を、ただこちら側で見ているだけ。

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