見出し画像

レコードとダブルラジカセと私(昭和49年女子とオーディオ)・前編

「昭和40年男」という雑誌の2024年2月号のテーマは「アナログで再生する俺たちの音楽」。
カーネーションの直枝政広氏のインタビューが読みたくて買ったんだけど(日本ロック界きってのレコードジャンキーの直枝さんを置いて、こんな特集にピッタリな人はいない)、さらに出るわ出るわ懐かしげなステレオやラジカセ、カセットテープの特集記事! 
読み進めるうち、自分のオーディオとの思い出も湧き出てきたので、つらつらとその辺を書いてみたいと思います(長くなるんで前編・後編に分けます)。

親のステレオ(レコード、カセット)の頃

私と音楽機器との最初の出会いは、「昭和40年男」にも載っていた、ナショナルの「どれみ」。
レコードが聞けて、マイクがついてて、チープなキーボードもついているという、おもちゃの域を超えた優れもので、「ピンポンパン」「みんなのうた」などのレコードをかけて遊んでいた。

家には古色蒼然とした家具調のステレオが鎮座ましましていて、父がカセットデッキ(確かTEACだったと思う)を接続して、プレスリーとかのカセットを聴いていた。

10歳年上の従兄がくれたごっついラジカセと2本のカセットテープ(一本はサザンオールスターズ「KAMAKURA」、もう1本は中森明菜とか堀ちえみとか吹田明日香とかが入ったもの)を兄と一緒に何度も聴いていた。

小学4年生の頃、大ブレイクしたチェッカーズに私も虜になり、1stアルバム「絶対チェッカーズ」がほしくて仕方なくて、月額400円のお小遣いを7か月間何も買わずに貯め続けて2,800円を貯めるという無謀な試みを始めた。
そんな私を不憫に思ったのか、なんと父が誕生日に買ってくれたのだった。

チェッカーズの変名バンド、CUTE BEAT CLUB BANDの限定版カセット「親愛なるジョージ・スプリングヒルバンド様」がほしくて、神戸の星電社(当時、神戸でレコードが買える店といえば真っ先にここだった)に自分で電話をかけて予約し、親と一緒に買いに行ったのもいい思い出だ(小5でその行動力……我ながら好きの力はすごいっ)。

父の教えとして「レコードは割れる前にカセットにコピーしとけ」というのがあり、しかし小学生の私にはTDK-ARとかADとかそういう「音楽向け」のカセットを買うお金はなく、「音楽にはやや不向き」と書いてあるTDK-DSを仕方なく買い、確かに音は良くなかったものの、宝物のように大事に聴いていた。

そのうち、MVを紹介する番組「ミュージックトマト」を見るようになり、「世の中にはチェッカーズ以外にもかっこいいアーティストがいるんだ!」と衝撃を受けた。
米米クラブ、BOOWY、バービーボーイズ、ストリートスライダーズ、レベッカ、TMネットワークetc.etc……。
のちにレジェンドとなる若手バンドたちである。
一緒に見ていた兄はそういうメジャーどころに注目していたが、私は、セールス的には大成功とはいかなかったかもしれないが自分の琴線に触れるアーティストに夢中になっていった。
ポータブルロック、中川勝彦、早瀬優香子、PINK、くじら、パール兄弟、ZELDA……。
そういう嗜好が現在の私を形づくっている気がする。

自分のラジカセ、兄のCDデッキの頃

初めて自分専用の音楽機器を買ってもらったのは小学5年生の冬、SANYOの「おしゃれなテレコ WU4」というダブルラジカセだった。
女性の需要を掘り起こすためだったらしい真っ赤なボディに加え、高速ダビングができるのが画期的だったラジカセである。
子供ながら一つの機械を任されたことが嬉しくて、ポリッシュでせっせと磨き、ヘッド部分も綿棒と専用の薬でクリーニングし、ヘッド部分に磁器が溜まって音質が悪くなるのを防ぐカセット型の消磁器(当時で4千円くらいした)も頑張って買って、定期的に消磁していた。
ラジオ(おもにFM)もよく聴いてはエアチェックしていた。
 
当時はアルバムがリリースされると、LPレコードだけじゃなくカセット版も発売されることがあった。
レコードは傷も付くし、割れるリスクもあり、裏返すのも面倒なので、私も父もいつしかカセット派になっていた。もちろん買うとすぐに空のカセットにコピーしてそっちを聴いていた。

さらに時代はカセットからCDにチェンジ。
兄の高校入学祝に父がDENONのCDデッキを買い、それまでレンタルレコード店をよく利用していた兄も続々CDを購入していき、中学1年生の私も一緒に聴いていた。

当時の私の小遣いではちょっと厳しい価格だった「GB」とか、まだ買える部類だった「PATIPATI」などの音楽雑誌を買い始めたのもこの頃。
バンドブームを牽引していくことになるユニコーン、レピッシュ、バクチク、ブルーハーツといったバンドたちが顔を出し始めた頃だ。

家の建て替えに伴い、父がステレオをONKYO Radianに買い替えたのが1990年頃(イメージキャラクター:南野陽子!)。
ものすごく音も良くて、機能も充実していて、家族みんなが飽きてしまってからも私だけはかなり長いこと愛用していた。

自分のウォークマン、CDラジカセの頃

高校1年の時、貯めたお年玉でSONYのウォークマンを購入した。
ケチってリモコン付きのを買わなかったのでのちのちまで不便を感じることになるのだが、やはりどこでも好きな音楽を聴けるというのは嬉しかった。

同時期に、近所にオープンしたレンタルCDショップの福引で2等を引き当て、AIWAのCDラジカセをもらった。これが初のCDラジカセとなる。

大学に入り一人暮らしを始めた兄がSANSUI(だったと思う)のステレオを買い、余ったDENONのCDデッキを私に譲ってくれた。
ウォークマン用のSONYのちっちゃなスピーカーを買ってつなげ、勉強机に置くと、自分だけの簡易CDシステムコンポが出来上がった。

高校は一応進学校で、勉強がハードで音楽聴いてる暇なんてなかったはずなんだけど、宿題もそこそこにONKYO Radianにかじりついて(CDデッキよりはやっぱりステレオの方が音が良かった)、たまとかレピッシュとかを聴いて、夜遅く就寝という毎日だった。

大学へはウォークマンを聴きながら通った。
英語のカセットでも聴けばいいものを、勉強熱心でもない私は相変わらず音楽ばっかり聴いて片道1時間30分を過ごした。
「おしゃれなテレコ」(相当長きにわたって壊れずにいてくれた)で聴いていたラジオ番組で流れていたカーネーションと運命の出会いを果たし、就職活動へはウォークマンでカーネーションを聴きながら出かけた。

まだ、インターネットがない頃だった。
パソコンで音楽を聴けるとか、パソコンで音源を買えるとかなんて、想像もできなかった頃だった。
(後編はこちら↓ よかったら読んでいってくださいね)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?