翻訳:第1部「貨幣原理の導出と英国硬貨への適用」(サー・ジェームズ・ステュアート『経済学原理』第3編「貨幣と硬貨」)

序章

この研究のように、ほとんどすべての段階で新たな関係へと枝分かれし、それがさまざまな結果の連鎖へとつながっていくような研究においては、あらゆる手を使って全体を結びつけるようにすることが有用である。

そのため、新しいテーマの始めに導入の章が必要になると思われる。

読者は、前編の最後の章(つまり、富と流通との均衡の揺らぎを扱った章)が、貨幣というテーマに導入するために書かれたものであることに気付いただろう。

貨幣に関する一部の原則を新たな論説として導入するよりも、交易の原則と直接結びつけることによって先取りする方がよいと考えた。このような配置をすることは記憶の助けとなり、多少の繰り返しの不便さを埋め合わせてくれるはずだ。

ここで言及している第2編の最後の章では、硬貨と紙幣の本質的な違いについて言及し、若干の指摘をすることができた。後者が流通を支える上で非常に有用であることも明らかにした。

第2編の第26章で、紙幣の定義を述べる際に、紙幣の同義語として信用に言及したが、これは発想を単純化するために行ったに過ぎない。複雑なテーマに光を当てるための最良の方法のひとつである。ここで、両者の違いを指摘する必要がある。

象徴貨幣や紙幣は信用の一種であるに過ぎず、信用を測る尺度以上のものではない。信用は、人と人との間のあらゆる契約の基礎である。民間人が何らかの履行や支払いを完済する際に、それがいずれかの側に少しの時間も残留しないように同時に完済されるということはほとんどない。したがって、一方が義務を果たすと、義務を果たすことを約束しているだけの相手には信用が与えられることになる。契約の多様性、契約に規定された支払いや履行の性質、履行されないものを埋め合わせるために差し出される担保に応じて、信用はさまざまな形をとり、さまざまな観念を私たちに伝えてくる。一方、紙の信用や象徴貨幣は、より単純である。それは、紙の中に含まれる特定の額面の貨幣の本質的価値を支払う義務である。ここに、本質的価値で支払われるものと、紙で支払われるものとの違いがある。本質的価値で支払う者は、支払うべきものを相手に実際に所有させる。これが完了すれば、もう信用は必要ない。紙で支払う者は、相応の価値を生み出してくれる誰かの義務を債権者に所有させるに過ぎない。ここでは、支払いが行われた後もなお信用が必要となる。

したがって、紙幣の基礎となる何らかの本質的価値を見出さなければならない。それなしには、紙幣に含まれる額面の基準となる価値を確定することは不可能だからである。

本書のテーマの中で、貨幣論ほど原理に落とし込むのが難しい分野はない。 しかし、困難だからといって躊躇するつもりはない。為政者にとって、これを徹底的に理解することは非常に重要なことであり、国家の貨幣が安定し不変であることは、交易と信用にとって最重要事項である。

このテーマの性質が許す程度の構成要素に限定するために、第1部では一般原則を導くことにこだわった。その中で、イギリス通貨の現状を例として取り上げている。

第2部では、硬貨の価値に製造価格を上乗せすることによって、硬貨を製造品に変えることの効果を検証し、この要素を加えることが両替や交易国の利益に及ぼす影響を指摘している。

第1章 計算貨幣について

お金とは何か

I. 金属は長い間貨幣の役割を果たしてきたため、貨幣と硬貨は、その原理はまったく異なるにもかかわらず、ほとんど同義語となっている。

従って、貨幣を扱う上で最初になすべきことは、2つの考え方を分離することである。この2つの考え方は、混じり合っているために、このテーマ全体を曇らせてしまっている。

定義

私が計算貨幣と呼ぶ貨幣は、販売可能なものの個別の価値を測るために考案された、恣意的な等間隔の尺度にすぎない。

したがって、計算貨幣は、鋳造貨幣とはまったく別のものである。計算貨幣とは価格のことであり、あらゆる商品に対して適切な相応の等価物となりうる物質などこの世に存在しないにもかかわらず、存在しうるものである。

したがって、第1章のテーマは次のようになる。1.物の価値を決定する原理を指摘すること、2.物の価値を測定するための不変の尺度の使用、3. 計算貨幣の発明が、一方では価値を測定するために、他方では価格を測定するために、いかに最適であるか、4. 物の価値そのものだけでなく、物の価値を測る尺度として一般に考えられている金属の価値も変動する中において、計算貨幣がいかに不変であるか。

価値を測る尺度としての貨幣

まず、計算貨幣のことをここでは「貨幣」と呼ぶことにする。度、分、秒などが角度に関して、あるいは目盛りが地図やあらゆる種類の図面に対して行うのと同じように、貨幣は物の価値に関して同じ役割を果たす。

これらすべての発明において、単位には常に何らかの呼称が用いられている。

角度では「度」、地図では「マイル」、「リーグ」、図面では「フィート」、「ヤード」、「トワーズ」、貨幣では「ポンド」、「リーブル」、「フローリン」などがそれにあたる。

角度には決まった長さはない。図面の単位を示す目盛りの部分にも決まった長さはない。これらすべての発明の有用性は、単に比率を示すことに限られている。

そのため、貨幣の単位は、価値のいかなる部分とも不変の決まった比率を持つことはできない。つまり、金、銀、その他のいかなる商品の、どのような特定の量に対しても固定することはできない。

一度単位を決めると、倍率をかけることでどんな大きな価値でも表すことができる。一方でその単位よりも小さな価値を表すときには、度量衡の助けを借りると取り扱いが簡単になる。イングランドではファージングが最小の通貨単位なので、小麦の粒は体積当たりの価格で、サクランボは重さ当たりの価格で取り引きされる。

物の価値を決める原則

II. 物の価値は、さまざまな状況の総合的な組み合わせに左右されるが、それらは4つの主要な要素に集約される。
第1に、評価対象となる物の量。
第2に、それに対する人々の需要。
第3に、需要者間の競争。
第4に、需要者の購買力の程度。
したがって、貨幣の機能は、これらすべての状況の組み合わせによって調整された物の価値を公開し、周知することである。

価格は貨幣量によって調整されない

この命題は自明であると思うし、千の証明の余地があるが、ここではそのうちの一つだけを示そう。

ある量の金や銀と、ある量のそれ以外の販売可能な物との間に決まった比率があるのだとすると、金属の量と物の量の比率が一定の場合に、価格がどうやって変動しうるのか、私には理解できない。

しかし、ある特定の商品を所有したいという人々の欲望と、それを手に入れようとする人々の間の競争が、以前は最低の価値しかなかったものをどんな高さにも引き上げることができ、また、このような状況がなければ、以前は大きな価値があったものを最低の水準にまで引き下げることができるのであれば、価格、すなわち人々が所有する金銀は(それが多くの場合、人々の間の競争を促進することがあるとしても)、物の価値を構成する人々の気まぐれや移り気の尺度には決してなり得ないことは明らかではないだろうか。

物質は、その重量、面積、体積、あるいは個数によって評価される。これらは、売買可能な有形の商品における4つの分類と考えることができる。

それぞれの分類に含まれるあらゆる種類のものを、それぞれの有益さに応じて、価値の比率に変換することができる。1ポンドの金、鉛、各種の穀物、各種のバター、あるいは何であろうと、ポンドで評価されるものは、ある特定の時点において、比率で表される価値の尺度に変換されうる。その尺度は、買い手と売り手の欲求、需要、競争、購買力によって絶え間なく変動し続ける。

したがって、金属と硬貨の増加が需要の増加と競争の激化をもたらす限りにおいて、その状況が価格の上昇に影響を及ぼすことはあっても、それ以上のことはない。

むしろ商品と人々の欲求との相対的比率による

したがって、商品の価値は、その商品自体をめぐる状況と、人々の気まぐれさをめぐる状況との総合的な組み合わせに依存しており、商品の価値は、この組み合わせによってのみ変化すると考えるべきである。それ故に、一般的かつ確定的な不変の尺度によってそうした比率の変化を確認することを惑わせたり、混乱させたりするようなものは何であれ、交易を害し、所有権の移転の足かせとなるに違いない。このような困惑や混乱は、貨幣や硬貨の政策におけるあらゆる悪習の確実な帰結である。

貨幣と価格を区別する必要性

III. ここで、そんな身近な話題についてこのような形而上学的な推論をする必要がどこにあるのかと、問われるかもしれない。いたるところで、物の価値は銀貨や金貨で測られており、架空の尺度を導入するために、現時点で銀貨や金貨を否定する機会はないということが分からないのか、と。

疑問に答えよう。この架空の尺度を導入せざるを得ないのは、必要に迫られているからにほかならない。それは、金属が尺度の役割を果たすことを否定する意図ではなく、貨幣の原理を理解し、貨幣の理論に関する著作や講演を行う人々によって日々提案される考え方を正しく見分けるための一助としてである。

金貨や銀貨が貨幣の役割を正確に果たすことができるのなら、他の価値尺度を導入することは馬鹿げている。しかし、金属には有形無形の欠点があり、それが尺度としての機能を果たすことを妨げている。そして、一般的な意見では、そのような欠点は存在しないとされているため、価格(つまり硬貨)を尺度として考える場合と、価値と等価なものとして考える場合の正確な違いを明らかにすることによって、それらを最も明確な光で明らかにする必要がある。

金属がこの二重の役割を果たすことの無謬性を盲目的に信じてしまうと、その結果生じる矛盾によって、こうした事柄に関する我々の考えの体系全体が混乱に陥りかねない。

金属に内在する有形無形の欠点が、貨幣の役割を正確に果たすことを妨げていることは、後に指摘する。今は、この空想的な貨幣の性質について、もう少し説明を続けなければならない。

計算貨幣はどのようにして作られるか

IV. 厳密かつ哲学的に言えば、貨幣とは、これまで述べてきたように、等間隔の空想的な尺度である。では、1単位の標準的な価値は何であるべきか。答える代わりに別の質問をしよう。1度、1分、1秒の角度の標準的な長さは何か?

そんなものはないし、人々が慣習的にふさわしいと考えるもの以外のものを持つ必要もない。しかし、尺度の性質上、ある部分が決定され次第、残りの部分はすべてそれに比例して決定されなければならない。

最初の一歩は完全に任意であり、人々は貨幣の1単位かそれ以上を貴金属の特定の量に合わせることができる。これが行われ、言うなれば貨幣が金や銀で具現化されるやいなや、貨幣は新たな定義を獲得する。そしてそれは価格となり、価値の尺度となる。

こうして金属を価値の尺度に合わせたからといって、金属そのものが尺度になるということにはならないことは、誰もがすぐに気付くはずだ。

しかし、かつて、商業が導入される以前、人類が価値を厳密に測定する機会が少なかった時代には、金属はその永続的な性質によって、尺度として、また、あらゆる取引における価格として、十分に正しく機能していた。商業が導入されて以来、国家はそれぞれの利益と負債を、できる限り精密に価値の等価物に変換することの重要性を学んだ。このことは、以前のように金属を尺度としても取引における価格としても認めることの不都合を示すこととなった。

それと同じように、地理学者や天文学者たちは、赤道での1度が地球上のあらゆる緯度の度数を測定するための明確な長さであると長い間考えていた。

当時は地球を球体とみなし、この仮定から大きな不都合は生じなかった。しかし、精度が向上するにつれて、その尺度が正しくないことが判明した。現在では、緯度の度数は地域によって長さが異なることが判明しており、いずれはおそらく、地球上に描かれたどんな大円から2つの角度を取り出したときも、それらの長さは幾何学的に等しくないということが判明するだろう。

ということで、計算貨幣は常に等しい価値を維持する。物の価値の比率が変動する中で、貨幣をいわば公正な均衡状態に保つことができる。価値を測定可能な、唯一の恒久的で均等な尺度である。

計算貨幣の例

この種の貨幣とその確立の可能性について、2つの例がある。1つ目は世界の国の中でよく知られている国で、2つ目はあまり知られていない国である。ひとつはアムステルダムの銀行、もうひとつはアンゴラ海岸地方である。

1フローリン・バンコは、1ポンドの純金や純銀よりも明確な価値を持つ。商業技術に精通した人間の発明によって見出された単位である。

銀行貨幣

この銀行貨幣は、海に浮かぶ岩のように不変である。この理想的な基準によって、あらゆるものの価格が調整されている。そして、それが何に依存しているのかを正確に説明できる人はほとんどいない。本質的価値を持つ貴金属は、他のあらゆるものと同じように、この共通の尺度に対して変動する。1ポンドの金、1ポンドの銀、1,000ギニー、1,000クラウン、1,000ピアストル、1,000ドゥカートは、それぞれ金属の比率が異なるのに応じて、この不変の基準より価値が高いこともあれば、低いこともある。

硬貨の重量、純度、額面の粗悪化は、銀行貨幣には一切影響を与えない。銀行が商品とみなすこれらの通貨は、他のあらゆるものと同様、その原料である金属の実際の価値に応じて、銀行貨幣での価値が高くなったり低くなったりする。その結果、銀行貨幣は、共通の尺度としての機能において、他の追随を許さないのである。

アンゴラ貨幣

2つ目の例は、アフリカのアンゴラ海岸の実物貨幣を持たない未開人の間で見られる。そこでは、住民はマクーテで計算する。場所によっては、このマクーテがピースと呼ばれる小数に細分化されている。1マクーテは10ピースに相当する。これは、取引価格を見積もるための等間隔の目盛りにすぎない。例えば羊が10なら、牛は40、一握りの金粉は1000に相当する。

結局のところ、計算貨幣は、他の物に対して価値が変動するどのような物質に対しても固定することはできない。交易の営みと、商業界における普遍的な価値の循環の影響によってのみ、あらゆる種類の商品の変動する価値を、この不変の基準に合わせることができるのである。これはアムステルダムの銀行貨幣を表現したものだ。この銀行貨幣はどんな時も決まった重量の銀や金によって極めて正確に規定されるだろう。しかし、24時間その正確な重量に縛られることがないのは、樽一杯のニシンに縛られることがないのと同じことだ。

第2章 人工的・物質的貨幣について

第3章 金属には不変の価値尺度としての役割を果たす能力がない

第4章 物質的貨幣が陥りやすい不都合を軽減するために提案されうる方法

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