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拝啓。木村汎(ひろし)先生へ。(2022年11月17日)

 「べらんめえ口調」。
 
 木村汎(ひろし)先生への弔辞で、この言葉が袴田茂樹先生によってうまれてから、本日(2022年11月17日)で3年になります。2022年2月24日正午以降(日本時間)の、ウクライナ情勢を私たちが目にしてから、最初のご命日(11月14日)を迎えました。木村先生が話されるならば、どのような口吻で話されるのだろうかと思う秋の一日です。
 
「キミが、ロシア語を学ぶために東京に来たと聞いて、僕(木村先生)は本当に嬉しい。『僕たち』が、頑張っていこうじゃないか」
 
 と、激励してくださったのは、2011年12月12日に「海洋船舶ビル」(当時)で行われた、「望年会」でのことでしたね。この日付に確信をもてないのは、木村先生からの激励をPCの中に「記録」として残していないからです。「海洋船舶ビル」は、虎ノ門フォーラムが開催されていたビルの名称ですが、東日本大震災後の耐震検査をクリアできず解体されることになっていました。解体を予定していなかったことを象徴するかのように、リニューアルして年をへていないきれいなお手洗いだったような記憶が残っています(こうして文章にしてみないと、虎ノ門フォーラムの会場のお手洗いがどのようなものだったのか、思い出す機会もなかったでしょうね)。
 
 木村先生はすでにそちらの世界でお会いになっているかもしれませんが、本年(2022年)、対ロシア外交で意欲を示した安倍晋三元首相が、街頭演説で凶弾によって斃れました。
 「安倍晋三元首相」。事件発生後にインターネット空間では名前の誤表記が目立ちましたので、筆者は、「『あべしんぞう』と入力すれば漢字変換候補として正しい表記が表示されますよ」とネットの片隅で発言しましたが、今、このPCで「あべしんぞう」と入力すれば、「安倍晋三内閣の対ロシア外交」という筆者独自の検索候補が表示されるのはご愛敬としても、「あべしんぞう」で変換作業を行うと、「安倍心臓」となってしまうことに、寂しさをおぼえます。
 第二次安倍晋三政権の対ロシア外交について歴史の法廷が開かれるならば、東京都町田市内の六畳一間の賃借人の筆者のPCにある「記録」が、重要になるのかもしれないな(第三者にとっては筆者が自己陶酔にひたっているな、との感想を抱かせるだろうな)と思いながら日々を過ごしています。
 
 直に木村先生と筆者が最後にお会いしたのは、2013年10月17日。日本国際問題研究所でのフィオナ・ヒル博士(Dr. Fiona Hill)の講演会でした。木村汎先生が一生懸命にメモをとりながら聞かれていたと、常盤伸さんが木村汎先生追悼記事で言及されています。
 またもや「PC」を引き合いにだしますが、当該PCメモの文字数から考えて、短い時間で多くの語数が使われたと推察されます。木村先生とご挨拶したのは記憶にありますが、その内容は、まさに「挨拶」程度のものだったと思います。木村先生が講師に質問しているところで、筆者のPCメモが「避難訓練が予定されているため、ここで打ち切り」と記載しており、軽く挨拶して、会話の内容はとりたてて記録に残すまでもないものだったと推察されます。
 
 木村先生と筆者の、今生のお別れは、2017年1月1日付の年賀状交換でした。ご傘寿をもって年賀状を「卒業」されるとの文面でした。
 いつぞやの年賀状で『プーチン』(藤原書店)の感想文を年賀状で書き込んだことがありました。翌年の木村先生からの年賀状で、「もしかして、拙著をお買い上げくださったのですか?もしそうであれば多謝です」とコメントしていただいたこともありました。もちろん、買った上で、年賀状に書きました。
 その次の年の年賀状だったでしょうか、筆者が金欠をなげいて書籍購入が苦しいと愚痴をこぼしたところ、木村先生は、「小生(木村先生)は、関学(関西学院:かんせいがくいん大学)図書館の市民会員として研究活動をしています。年会費5,000円です」とありました。
 十年弱の時計の針を戻しますが、初めて木村汎先生を生で見た(←敬意よりも、「べらんめえ口調」の迫力に驚かされたことを言葉で表現しようと推敲をすると「生で見た」になりました)2007年4月9日。大阪駅前第二ビルの会議室での講演会でした。中国の勉強会で講師として木村先生が招かれていました。
 
「ロシアに対する日本の関心は、薄い。その証拠に、僕の勤務先の拓殖大学で『ロシアを研究したい』と入学してきた大学院生は、一人もいなかった」。
 
 上記のセリフはPCメモではなく、筆者の記憶による「文字起こし」です。翌日付(2007年4月10日付)のメモは残っているのですが、当時27になったばかりの弱冠者の筆者は、我流のメモ筆記と、PCへの「記録」を体得していなかったのです。
 なぜ、「初めて生で見た」のが、2007年4月9日だと特定できたのかというと、手帳の予定表に記録を残していたからです。家庭教師をしながらの大学院M3時代でしたが、「学部新卒で入社した生命保険会社を、心身を病んで4ヵ月で早期退職したので、再就職がかなわない」という私事と、前期課程での受入れに関しては「大学院全入時代到来か?」といわれた情勢をかけあわせた結果でえられた大学院生、という立場でした。西暦2001年に学部ゼミ(演習)を履修することがかないましたが、当時大学院生の先輩からは、「大学院に進みたいのなら、『お金があるか』と必ず聞かれる。大学院に進むと民間企業に就職できなくなるから、『路頭に迷う』将来を想像しなければならない」と洗礼をうけました。
 学部卒業後、4か月で(心身を病んで)早期退職。実家が大阪にあることと、学部には自宅(実家)から通学できたこと、当時は家庭教師でも(2022年の今日では見る影もない)待遇に恵まれたことで、(学徒としては眉をしかめられたでしょうが)なんとかなった、という状況でした。
 でも、東京の私立大学である拓殖大学でご指導をあおぐという発想は、大学院入学に向けて資金繰りや家族への説明を模索していた2003,2004年には想定できなかっただろうと、今(2022年)でも思います。
 
 「関学なら年会費5,000円で研究活動ができる」というのを知ったのは東京都町田市の六畳一間の閑居でしたが、アマゾンの中古市場で購入した『遠い隣国』の背表紙を眺めながら、「研究に必要な書籍は、自腹で買って、移動時間のあいまをぬって読む」というライフスタイル(?)の我が身をかえりみて、後頭部に手をやったものです。もっとも、小田急で快速急行や急行を利用せずに各停に乗って時間をつくり、移動時間を長めにとって降車駅までに論文一本やら書籍一冊やらの目標を定める日々も楽しめたので悔いはありません。ただ、後生畏るべし、という意味での「後生」の方であれば、図書館という空間を有効に活用され、(近年憂慮の声があがっている、図書館の施設としての評価基準や図書館職員の待遇、蔵書寄贈とその保管も含めて)より良い未来を「希望する」ものであります。
 
 二度目にお会いしたのは、2008年3月9日、京都市内。学生を対象とした講演会で、その場にて木村汎(2005)『新版 日露国境交渉史』(角川選書)を購入すれば直筆サインを頂戴できるという場でした。帰りの阪急京都線の快速急行(特急だったかもしれません。なお、2022年12月17日のダイヤ改正で快速急行が廃止されて準特急が導入されるので戸惑う方もおられるかもしれません)車内にて、密度の濃い議論をかわした感動は、今もなお健在です。
 木村汎(2008)『プーチンのエネルギー戦略』(北星堂書店)について筆者が愚問を若気の至りで発したところ、目を大きく開かれたことがありました。
 
「キミ(筆者)は、一日に、何時間、本を読んでいるの?」
「???一日が24時間ですから、そこから寝る時間と、食事をする時間と、仕事をしているを引いて、、、・・・・・・それ以外が、読書時間です」
「キミの読書はすごい。それで、十分だ。とにかく、書きなさい。丸山真男の弟子でXさんという人がいたのだけれど、まぁ師匠が師匠だから大変すぎたのだろうけれど、『すごい』『すごい』、と言われながら、書けずに終わってしまった人がいるのだよ」
 
 残念ながら、筆者は、その通りに、なろうとしていました。
 
 「読む」ばかりで、「書く」ことをしない。
 従業員なしの個人事業主として、「独立不羈」を心に宿すといえども、「所属」がなければ学会報告も遠慮するべきではないか。大阪を出て、家庭教師等の業務契約をいつでも斬られる不安定な身分でしたので、一歩間違えれば無職。町田市立の図書館に通えば済むかもしれぬものの、「一歩間違えれば無職」という恐怖感と甘えで、本日まで町田中央図書館には足を運んでおりません。
 
 不惑をこえて知ったのですが、筆者(1980生)と同世代で本日に大成して名を上げた研究者も、所属はあれども似た境遇だったのだなと、知るようになった今日この頃です。その代表例が、第41回サントリー学芸賞決定(2019年11月12日付)で報じられた、小泉悠先生(1982生)。
 筆者はテレビ受信機を閑居に設置していないのですが、2014年のクリミア情勢では連日のようにテレビ出演していたことは、SNS(インターネット空間)で多くの方が発信していました。小泉悠先生を2022年2月24日以降に初めて知った方も多いかと拝察はいたしますが、2014年2月・3月にはテレビ局に呼ばれるように論文発表にとどまらない発信活動をしていました。
 
「私はかつて自分で落語をやっていたことがあり、つい話を面白い方向に持っていってしまいがちな悪癖があります。そうして多少『盛った』表現の中から、『商業出版的に特においしい』部分が強調されると、出来上がったロシア像はひどく歪んだものになってしまうのです」
 
小泉悠(2022)『ロシア点描』(PHP研究所)p.184,185
 
小泉悠先生は、学会報告や論文リジェクトをネタとして投稿していました。そうした努力を積み重ねて、「読者」を増やしていったのだと思うと、筆者の現況も納得がいきます。中学生の時に落語をしていてウケをねらう「芸」を体得していた、日・月・年・十年と、「笑いをとる」「商売」ということに関しては本邦一の大阪で生まれ育ちながら周囲に「おもろない」と言われて「芸」を磨くということを放擲していた筆者。
 
 『プーチンのエネルギー戦略』では、「プーチンの学位論文」について袴田茂樹先生からの情報交換が「枕」になっています。袴田茂樹先生は、「メディアからの取材にこたえるために、ロシアで放送されたテレビを受信できるように(日本のご自宅を)工事した」と、かつて書かれていました。
 今では、小泉悠先生(東京大学先端科学技術研究センター専任講師)が「『個人』の資格」で衛星画像を購入し、その画像分析を有料メールマガジンで発表する2022年11月を迎えています。袴田茂樹先生による選評(第41回サントリー学芸賞公式サイトによると2019年11月12日付?)と、(贈呈式の2019年12月9日付だと推察されますが)小泉悠先生による受賞のことばでは、「軍事オタク」に関するやりとりが本日でもネット上で閲覧できます(筆者アクセス:2022年11月16日)。筆者は、敬意をこめて小泉悠先生が「軍事オタク」であること、そして、「本賞の受賞を踏み台にして、小泉氏がさらに飛躍することを大いに期待したい」という袴田茂樹先生の選評にこたえての今日の活躍と受け止めています。
 
「キミは、何をしているのか」
 
 べらんめえ口調で声が聞こえそうなので、お答えします。
 2020年11月15日に

 
 をKindleで(電子書籍として)、個人で「出版」しました。
 現時点では、「小説」です。
 「小説」といっても、売れていないのですから、失敗です。
 出版社を通した本であれば、筆者には、二度と機会を与えられないでしょう。
 現時点(2022年11月17日)では、アマゾン社にて販売されています。
 インターネットについて木村先生は「印刷革命以来の出来事」として、ご蔵書の引き取り先が見つからない苦悩を書かれていましたが(当時は、「『終活』をされているのだな」と思われて悲しかったのですが)、徒手空拳の筆者でも、「書く」機会を与えられたことはご報告しておきます。
 
 拙い本稿でも日付をならべたように、筆者のPCには、「記録」があり、その「記録」を解釈する手がかりとなる「記憶」があります。「第二次安倍晋三政権における対ロシア外交」と題した論文は、後世の歴史家の誰かが書くかもしれませんが、「公文書は国民の財産である」という言説が市井に流れる2022年。
 ご令姉の作品が刑事部(ジブ)ならば、筆者は警備部(ビブ)。
 
 『大阪府警ソトゴト(ロシア担当):VS神奈川県警ソトゴト』
 
 の執筆をしております(2023年1月出版予定)。
 
 木村先生の生前の言葉で、「ウソだろう」と思っていたことがあります。
 
「僕(木村先生)は『ワープロ』ができない」
 
 2019年11月17日に木村先生とお別れをした後、JR車内でAさんが口にされていました。
 
「木村先生のご絶筆が、あの字体で、原稿用紙にびっしりと残されていた」
 
 JR東海道線。記憶に残る車内での場所の取り方を思い浮かべれば、おそらく221系の快速電車だと思うのですが、Aさんの言葉を聞いて、木村先生はうそをつかれていなかったのだな、としんみり思ったことを、3年を経た今も覚えています。
 
 末筆になりましたが、3年前の今日(2019年11月17日)に、もっとも秘すべき場で発せられた、「べらんめえ口調」という言葉をネット空間にて書きたい、という失礼なお願いを快諾してくださった袴田茂樹先生に、心より御礼申し上げます。
 
 2022年11月17日


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