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毛利元就〜安芸国の中心人物へ〜

はじめに

皆様、いつも読んでいただき、ありがとうございます。前回に引き続き、毛利元就を書いていきます。よろしくお願いします。

尼子家から大内家への従属

尼子家からの度重なる介入に元就は、不信感を募らせていったと思われます。しかし、元就は重臣を人質に出しており、容易に大内家に乗りかえることが可能な状況ではありませんでした。

1524年、大内義興は、嫡男の義隆を伴い安芸国に侵攻を開始します。この戦いでは、元就は尼子方として戦います。銀山城の戦いでは、包囲している大内軍、陶興房の背後を攻撃し、城から撤退させる活躍を見せています。この活躍は、安芸国に優秀な若い領主がいることの実感を大内家に持たせたと考えられます。

そして、1525年に元就は陶興房からの誘いを受け、大内家に従属します。ただ、旗幟を鮮明にしたわけではなく、尼子家とも関係を保ち、つかず離れずの状態を保っていたようです。こういった大勢力の間を渡り歩く様に、信濃の真田昌幸を私は、連想しました。どちらも、一つの国の国人領主、かつ大勢力が周囲にある状況です。その中を自分の知恵を使って目の前の課題を解決し、敵を倒すことで勢力を拡大しています。

吉田郡山城の戦い

大内家へ従属しつつも尼子家とも関係を保つという状況は、いつまでも続きませんでした。1540年、尼子家が安芸国に侵攻してきます。当時の尼子家は経久の孫、晴久が家督を相続していました。尼子家は、30,000人の大軍で攻めてきました。これに対して毛利軍は2,800人程度と言われています。

元就の戦術は、籠城戦で耐えながら大内家の援軍を待つものだったと言われています。9月15日から始まった戦いは、しばらくの間は、膠着状態が続きました。しかし、12月3日に大内家からの10,000人の援軍が到着することで大きく戦況が変わります。この援軍により、尼子軍は内側を毛利軍、外側を大内軍に挟まれる状態となります。尼子久幸(晴久の大叔父、経久の弟)が戦死し、前後を挟まれた尼子軍は撤退を余儀なくされます。

この戦いの後、元就は、この戦いをまとめた日記を幕府に提出し、幕府から称賛されています。そして、安芸国の中心的存在として認められることになったのです。この時の元就の年齢は45歳、若い頃からの苦労を乗り越えて山を登った感慨があったのではないでしょうか。元就は、さらに山を登ります。皆様がご存知の厳島の戦いです。この戦いは、1555年です。つまり、元就が59歳の時です。次回から、一つの山を登った元就がさらなる高みを目指していったことを書いていきたいと思います。

記事を作成するに際し、以下の書籍を参考にしました。

小和田 哲郎,「毛利元就  知将の戦略・戦術」,凸版印刷株式会社, 2013年1月
吉田 龍司, 「毛利元就 猛悪無道と呼ばれた男」, 株式会社新紀元社, 2010年9月
本郷 和人, 「戦国武将の解剖図鑑」, 株式会社エクスナレッジ, 2015年11月

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