鯵五郎

SP盤時代の歌謡曲や、深夜アニメ、Nゲージなどが好きな中年後期のオッさんです。何卒宜し…

鯵五郎

SP盤時代の歌謡曲や、深夜アニメ、Nゲージなどが好きな中年後期のオッさんです。何卒宜しくお願いします。

最近の記事

ラブ・レター (フランク永井)。

フランク永井の歌う「ラブ・レター」。佐伯孝夫作詞、吉田正作曲で、数あるヒット曲の中の一つです。昭和7年に宮城県松山町に生まれたフランク永井は、本名を永井清人と云いまして、子供の頃から芸事に興味を持ち特に歌手への憧れを抱きました。地元校を卒業すると兄を追って上京し、トラック運転手として働く傍ら、好きだったジャズを歌いつつ米軍基地を周りました。評価は上々であり、さらにテレビの素人のど自慢大会に出て頭角を現します。ベストワンに選ばれてビクターと契約し、ジャズ歌手としてデビューするの

    • 青春街の唄 (藤本二三吉)。

      藤本二三吉の歌う「青春街の唄」。酒巻春之助作詞、池田不二男作曲で、サンデー毎日にて、宮本幹也が連載していた小説「青春街」が新興キネマで映画化された際の主題歌でした。監督は同プロダクションに移籍したばかりの村田實が担当。中野英二、岡田時彦、入江たか子、森静子などが出演した全十巻の作品であり、昭和8年11月に封切られました。物語は闇の世界に落ちぶれた不良青年が主人公で、嘗ての恋人と再会するも兄弟分が彼女を愛している事を知ると、進んで恋を譲り身は再びギャングとして夜の街へと去って行

      • 東京セレナーデ (二村定一)。

        二村定一の歌う「東京セレナーデ」。時雨音羽作詞、佐々紅華作曲で、昭和初期に多く書かれたシティソングの一つです。当時のビクター邦楽新譜には、佐藤千夜子&西條八十&中山晋平による新民謡や抒情歌、そして二村&時雨&佐々のシティソングという、二つの売れ線流行歌がありました。たとえば「君恋し」が流行れば「東京行進曲」が場外ホームランと言った具合で、一つのレーベル内でも激しいヒット合戦が展開しており、世は昭和歌謡史最初の黄金時代へと突入します。佐々紅華は、一つの楽曲を三味線伴奏とジャズ伴

        • あたし大人 (平井英子)。

          平井英子の歌う「あたし大人」。佐伯孝夫作詞、鈴木静一作曲で、長らく童謡歌手として活躍して来た、平井の記念すべき流行歌でのデビュー曲でした。大正7年1月東京市に生まれ、幼少の頃より音楽の勉強を始めた彼女は、10歳を前に作曲家中山晋平の目に叶って師事する運びとなります。当初はヒコーキレコードからデビューしましたが、やがて日本進出したビクターに中山共々迎えられ、童謡歌手として最初の黄金時代を迎える事に。「あの町この町」「兎のダンス」「證誠寺の狸囃子」などの定番曲の他、佐々紅華作曲の

        ラブ・レター (フランク永井)。

          さくら音頭 (浅草〆香・新橋喜代三他)。

          今年も早新年度を迎えました。ようやく桜の便りも各地から届き始めた今日この頃と云う訳で、今夜は浅草〆香、新橋喜代三、玉野小花、東海林太郎達が歌う「さくら音頭」を。サトウ・ハチロー作詞、山田榮一作曲でした。昭和初期の新民謡ブームで、日本各地の綺麗処達が注目され、それらの芸者達がレコード界へ進出するやこれまた多くのスターを輩出。中でもビクターの擁する小唄勝太郎、市丸の『勝市コンビ』は凄まじいものがあり、昭和8年に出た「東京音頭」「天龍下れば」は大ヒットしました。そしてお花見シーズン

          さくら音頭 (浅草〆香・新橋喜代三他)。

          寂しき路 (徳山璉)。

          徳山璉の歌う「寂しき路」。長田幹彦作詞、橋本國彦編曲、原曲はナルクシクレッド作曲の“lonesome road”で、ラベルにはユニバーサル映画「ショーボートの中の歌」とあります。此の映画は確かに存在しますが、1936年の制作と資料にはありましたので、それだと当レコードの制作時期より数年後と云う事になります。検索した限りでは1929年にも同名映画が同じユニバーサルの手で作られているので、恐らくは此方のバージョンでの挿入歌ではないかと推察されます。当時は「リオ・リタ」や「ビッグ・

          寂しき路 (徳山璉)。

          暁の決死隊 (三門順子)。

          今や忘れ去られた女性歌手の一人が三門順子。その彼女が歌う時局歌の一つが「暁の決死隊」で、日華事変真っ只中に書かれております。彼女は大正4年に栃木県に生まれ、幼少の頃より長唄に親しみまして、18歳の時にNHKのラジオ番組に出演してその美声を全国に知らしめました。折しもその頃は“ハァ小唄”に代表される芸者歌手ブームの真っ只中でして、日本調の流行歌の需要が高まっておりました。多くの芸者らがレコード会社と契約して続々と新曲を繰り出したのですが、彼女らは検番に所属している関係からか『花

          暁の決死隊 (三門順子)。

          恋の鳥 (荘司史郎)。

          荘司史郎の歌う「恋の鳥」。小説家の久米正雄の作詞、原野為二作曲で、久米原作の「沈丁花」が松竹で映画化された際の主題歌です。此の物語の原作は東京大阪朝日新聞の連載小説であり、名もなき天才的な若き画学生を描いております。主人公の青年は大御所画家の倅なのですが、保守的な父親は自身の作風を踏襲する兄を可愛がり、新しい絵を求める次男に冷たく当たるばかりで、とうとう破門追放の憂き目に。困窮する中である芸者と知り合い、そして励まされ、再起を図るべく絵のコンクールに出す作品製作に取り掛かるの

          恋の鳥 (荘司史郎)。

          銀座恋しぐれ (小谷サユリ)。

          小谷サユリの歌う「銀座恋しぐれ」。鹿山映二郎作詞、柳澤志乃夫作曲とありますが、小谷は彌生ひばり、柳澤は竹岡信幸の変名です。新宿ムーランルージュで歌っていた彌生は、キングに入れた「ララ東京」を皮切りに「街の日暮れ」「唄え想い出」などを録音。更に松竹楽劇部に属して少女歌劇のステージに立つなどして活躍し、歌手としても幾つかのレーベルにも進出して持ち歌の数を増やしました。しかしそれに前後して変名も使って吹き込んでいた事を知る人は、当時であっても極々限られていた事でしょう。此の歌を手掛

          銀座恋しぐれ (小谷サユリ)。

          吉良の仁吉 (美ち奴)。

          美ち奴の歌う「吉良の仁吉」。萩原四郎作詞、山下五郎作曲で、彼女の代表的な一曲です。幕末の“裏の英雄”とも云うべき清水次郎長に並ぶ侠客が『吉良の仁吉』。腕っぷしが強いだけでなく、義理人情に厚い性格だった彼は、18歳の頃に次郎長一家の世話になり兄弟盃を交わす存在に。そして吉良に帰り一家を形成しますが、やがて清水一家の舎弟である伊勢吉五郎の縄張りを襲った穴太徳次郎と対立する事になります。1866年4月、荒神山の争いに参加して、伊勢一家は勝利を収めるも、哀れにも仁吉は討ち死にを遂げ、

          吉良の仁吉 (美ち奴)。

          ハイキング・ソング (渡邊はま子・藤山一郎)。

          渡邊はま子と藤山一郎と合唱団の歌う「ハイキング・ソング」。佐伯孝夫作詞、鈴木静一作曲によるレクリエーションソングで、音楽学校出の二人らしく癖のない歌声で朗々と歌っております。今みたいに家での娯楽が然程多くなかった当時、春秋はハイキング、夏はキャンプに海水浴、そして冬はスキーと云うのがチョットした贅沢なレジャーでした。そしてこれらの行楽は自家用車が普及していない当時は鉄道移動であり、従って国鉄の前身である鉄道省はシーズンに合わせてキャンペーンを行っていました。勿論それにはレコー

          ハイキング・ソング (渡邊はま子・藤山一郎)。

          身代わり五拾銭 (上原敏)。

          土曜日に更新するのは、久しぶりの事。土曜は軍歌戦時歌謡と決めているので、その中から上原敏の歌う「身代わり五拾銭」を。サトウハチロー作詞、山田榮一作曲で、数ある戦時歌謡の一曲です。昭和10年代のポリドールを東海林太郎共に支えた上原敏は、股旅歌謡にマドロスソングと立て続けにヒットを放ち、そして日課事変下には多くの時局歌謡を歌いました。音楽学校卒業歌手とは違った、やや癖のある歌い方ながらも、爽やかな男臭さに溢れたその歌声に人々は酔いしれて、彼のレコードは飛ぶ様に売れて行きました。さ

          身代わり五拾銭 (上原敏)。

          空の行進曲 (松平不二男)。

          松平不二男の歌う「空の行進曲」。河野達郎作詞、坂田義一作曲で、キング時代の松平晃が入れた内の一曲です。音楽学校在学中の昭和7年、日東レコードから「夏は朗らか」でデビューすると、彼はあらゆる芸名を用いてタイヘイ、テイチク、パルロフォンと各社に出没し、その多忙振りから果たしてどのレーベルで使用する名前だったか分からなくなる程でした。ポリドールで吹き込みを開始すると、その傘下にあったキングでも歌う様になり、ここで初めて松平姓を名乗りますが、下の名前は晃ではく不二男でした。また歌詞カ

          空の行進曲 (松平不二男)。

          仰げば尊し (櫻田小学校児童)。

          3月と言えば卒業式のシーズンです。高校は初旬、小中学校は大体中旬に行われておりますが、高校が比較的早いのは卒業生らの4月からの新生活の為の準備期間の確保の為、また新入生受け入れの準備や教員らの異動の都合もある様です。因みに私が小学校を卒業した日は3月19日で、とても暖かい金曜日の午前中でした。前置きが長くなりましたが、卒業生達の合唱曲として有名なのが「仰げば尊し」です。古く明治17年に伊沢修二が監修して文部省唱歌に制定され、以来長きに渡って卒業生達から恩師達への感謝を伝える歌

          仰げば尊し (櫻田小学校児童)。

          ギターながし (春日八郎)。

          春日八郎が歌う「ギターながし」。矢野亮作詞、吉田矢健治作曲で、歌手として踏み出した春日の初期の一曲です。大正13年10月に福島県会津坂下町に生まれた春日八郎は、本名を渡部実と言います。両親とも職人と云う、裕福とは言えないまでも堅実な家に生まれ育ちました。会津の田舎町にも流れて来る流行歌に傾倒した彼は、上京して工業学校から音楽学校へと転じるのですが、折しも戦争の時代であり応召されて台湾で終戦を迎える等、終戦前後は波乱に満ちた時期を過ごします。その後キングレコードのテストを受けて

          ギターながし (春日八郎)。

          涙の行進曲 (小林千代子)。

          小林千代子の歌う「涙の行進曲」。佐伯孝夫作詞、加藤しのぶ作曲です。北海道小樽市が生んだ才媛小林千代子は、音楽学校を出て昭和6年に「アリラン」を歌って歌手デビューを飾りました。此の時は覆面歌手『金色仮面』と云う触れ込みであり、正体不明の美声の持ち主としてミステリアスな存在に。その後も「銀座バッドガール」や「モダン五人娘」と歌いましたが、いつしか本名でのクレジットに切り替わりました。昭和7年秋に『涙の渡り鳥」が大ヒットして、その名前は不動のものとなるのですが、その頃の彼女は揺れて

          涙の行進曲 (小林千代子)。