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note投稿再開。まずは生い立ちから起業に至るまでのお話。恥ずかしながら初公開。

最初にnoteを投稿してからだいぶ年数が経過しました。
気恥ずかしさから投稿を消したり、投稿するのをやめたり。
またふとしたモチベーションから投稿を再開します。
ぜひ気軽に見ていただけると嬉しいです。


改めまして、八木澤玲玖(やぎさわ れく)と申します。
1999年7月生まれ、現在22歳です。
キラキラした名前ですが、しっかりと本名です。
(この名前のおかげで皆さんに覚えてもらえるので、両親には心から感謝し
ています)

幼少期の話


生まれ故郷は、栃木県那須塩原市です。
両親が21歳の時の長男で、初孫、親戚の中でも一番早かったので、
物心ついた時から周りには大人ばかりでした。
話をすることが大好きで、周りに知り合いが増えていくことが何よりの喜び。
目立ちたがり屋で、誰になんと言われようと積極的に前に出ていくタイプでした。

親戚が集まれば場を仕切り、笑いをとったり踊りを踊ったり。
話についていくために必死に大人の話を理解しようと、自ら勉強。
記憶力がみるみるうちに良くなっていき、親戚の誕生日や車のナンバー、過去の出来事の日付や曜日までも完璧に覚えていました。

幼稚園では、先生やバスの運転手と大の仲良し。
遠足では帰りの道中、先生を含めて同級生たちは眠りについている中、バスの助手席に乗り、運転手と何時間も話していたというエピソードも聞いたことがあります。

小さい頃のアルバムには知らない人がよく出てきます。
デパートで出会った高校生、幼稚園に職業体験に来た中学生、電車で出会った見ず知らずの老夫婦など、とにかく人間皆友達のようにひたすら人と関わり続ける幼少期でした。

小学校、中学校時代

小学生になり、学年約70名、全校生徒が約450名という圧倒的規模感に圧倒された私が、一番最初に掲げた目標が「全校生徒全員と一度は話をする」でした。
正直、低学年の頃のことをはっきりとは覚えていませんが、卒業時には目標達成ができたと、そう思っていました。
各イベントの司会、運動会の実況、放送室を占拠し、とにかく目立ちまくりました。

野球部に入部するも、「運動には才能がない」とはっきりわかったので、それにより将来の夢を「アナウンサー」としたことを覚えています。

中学校では吹奏楽にのめり込み、特に中学時代はほぼ毎日が部活でした。
(正直、運動部より練習してたと思います)
この吹奏楽との出会いが私の人生にとっての大きなことの一つとなったのです。(これはまたゆっくり書きたいなと思います)

たまにある休みは、吹奏楽仲間の他校のヤツらと絡み、ここには書けないようなこともたくさんしました。
こうして小学校という狭いエリアから、地域中に顔を売り始めました。

中学校の学年は約250名、全校生徒は700名を超えるので、小学生の時に掲げた目標「全校生徒全員と一度は話をする」は不可能のように思えましたが、3年間を通して声をかけまくったので、達成したのではないかな?と思っています(笑)
(学年の人は今でも全員わかります)

あ、先生は全員話したことがあったことは断言できます。
もちろん事務員さんや用務員さんも含めてですよ(笑)

高校で運命の選択

黒磯高校に進学した私ですが、実はここにも少しエピソードが。
(自慢できるようなものではないですが)

高校入試の願書の下書きを学校に提出し、いよいよ清書。
家に帰って母親と下書きを眺めながら、2人でこう言いました。

「高校、変えるか!」

私が志望校として学校に提出したのは、大田原高校。
栃木県北地域屈指の進学校で、男子校です。

変えた理由は学力ではありません。
(正直、本番も合格点を余裕で超えてました)

母:「あんた、男子校に入ったら3日でやめそうだね」
私:「たしかに。変えていい?黒高で」
母:「そうしたら?」

はい、こんな感じです。(笑)
昔からおしゃべりだったので、どうしても女性と馬が合うこともあり、、(笑)

次の日から学校は大騒ぎで、計8人の先生と面談したのを覚えています汗

これが起業へとつながるとは、誰も想像しませんでしたが。。

まちづくりへ

無事合格した黒磯高校。
母親の出身校でもあり、母親の実家も黒磯にあります。
ただ、黒磯高校の最寄駅である黒磯駅周辺は、私が物心ついた頃から淋しい風景で、怖い印象すらあったのです。

そんな黒磯駅周辺に、いざ降りて高校まで歩いていると、意外にもある魅力とシャッター街などの浮き彫りになってくる課題に、居ても立っても居られなくなりました。

そんな時、たまたまFacebookで見つけたのです。

黒磯駅前活性化委員会

会議が近々おこなわれるとのことで、私はすぐに市役所に電話をし、出席したいと伝えました。
高校生でも出席できるのか不安でしたが、快諾いただきました。
出席してはみたものの、現実は厳しいばかり。
年齢層の高さや若者社会のニーズとは違う意見、熱くなると飛び交う怒号に多くのしがらみ。
そんな中でも、地域のために汗水流す大人たちを目の当たりにしました。
そして会の最後に、高校生の意見を求められた私はこう言いました。

「この会議は私みたいな若者が参加する場ではないのかもしれません。しかし、この地域は外国人対応やWi-Fiの設置、ICT化など現代社会に欠かせなくなりつつあるものに遅れをとっています。先輩方が築かれてきたこの地域を、私たち若者は未来へと繋げていく必要があると強く思いました。」

それからというもの、高校生の意見を求められ、いろいろな会議に呼ばれるようになりました。
時には生意気と言われようものの、これには意味があると、高校の仲間たちを引き連れていろいろな場所へ走り回りました。

そんな時にふと思ったこと。

それは、

「このまま続けていけるのか。」

あくまでボランティアで地域有志が集まっているこの活動の成果が、見えなくなってきたのです。
本当に地域のためになっているのか。
未来に繋げていけるのか。

ビジネスでやれないかな…
やれる人いないかな…

そう思った矢先のことでした。

起業、そして高校生社長に

ある日の帰りのホームルームのこと。
いつものように回ってくる手紙の中に、
「第4回とちぎアントレプレナーコンテスト」とありました。
※このあたりもまた詳しく書けたらなと思います。

このコンテストで1,119名の中から最優秀賞に選ばれ、起業となるわけです。
選ばれたのが高校2年の終わり。

話題性を考えると高校生のうちに起業せねば…

こうして、高校3年の6月に起業となったわけです。



こんな感じで、
自分のペースで気ままに投稿していきます。


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