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子どもも先生も安心して学べる学校

エドカフェ30回〜視聴者のモヤモヤから対話しよう〜
(視聴者からの3つの質問をテーマに対話が展開される「エドカフェNo.30」の動画の内容をまとめてみました。)

※詳しくはこちらの動画をご覧ください。↓
https://www.youtube.com/watch?v=3xXbOk2mN84


どうすれば、子どもを主語にした授業ができるの?

「その子が何を学んだか?」これが子どもを主語にした授業

授業の状態ではない。状態って見えるもの。授業形態とか、手挙げるとか挙げないとか、指名するとかしないとか、すわってるとか、動き回ってるとか、それを状態って言うと思うけど、そこ違う。

「子どもが何を学んだか?」

30人教室にいたら30通りの主語がある。
この30人の子どもたちが、1時間の授業の中で、「あなたは何を学びましたか?」これが、子どもを主語にした授業。


なんのために子どもを主語に?

なんのために子どもを主語にする?→子どもが育つため。
これまで先生たちが教える授業で子どもが育ってたら、400〜500人の子が1年間で死んでしまわないし、30万の、学校に行ってない子は学校に来て学んでいる。
これだけの子どもが死んで、これだけの子どもが学校に来てない。

先生が主語で子どもひっぱってても、子どもの事実がこうだから、問い直すことが必要。
子どもを主語にしたら、30通りの個々の主語が1時間の授業の中で、どう育っていますか?っていうのが、教師の授業評価になる。

見えるところでなくて、見えないところが大事。
みんなが背筋伸ばしてノート取っていれば子どもが主語になっている、ということではない。
一人一人が自分から興味をもって参加したり、学んだ達成感が持てなかったら、子どもが主語にということにはならない。

興味をもってやっているか?
言われたことをただ下請けでやっているだけか?

「いいからやりなさい!」「黙ってやりなさい!」今も言っている先生いる。

一言で言えば、一人の子が、この授業の当事者になっているかどうか?
それで、先生が苦しんでたらあかんやんか?
「子どもを主語にしてこんな授業やらなきゃ」ってなったら、学校行くのも授業するのも怖くなる。
そんな大層に構えて「子どもを主語にした授業に!」なんてできない。
自分が授業してて楽しい?


子どもが主語の授業で教師がやることは?

1時間の授業で、子どもがどうだったか?なんて一人の目で見ててわからないのがあたりまえ。だから大空小で、みんなで「できたらやろう」って言ってたのは、ノート指導。
見開きを1時間で使ったら、その最後の一行、子どもが殴り書きする。
何を書いてもいっさい返したりしない。
「難しかったけど、おもろかった。」
「こんな授業全然わからんかったし、たいくつやった。」など、
この一行を授業者は自分の評価にする。

ノートは、黒板をうつすのでない。自分の参考書。
そのノートはその子にしか作れない。すごく大事。
板書をうつすみたいな授業してて、そもそも子どもを主語になんて言葉使えない。
先生たち「教えたらあかんの?」って悩んでる。でもそうじゃない。
教えることを確実に教えなきゃ子どもを主語にした授業なんてできない。何を教えるか?知識、スキルじゃないことはみんなわかってる。何教えれば子ども主語にした授業つくれる?

例えばチャイムが鳴る。授業が始まる。45分、50分経ってチャイムが鳴る。この間に先生が一言も喋らなくても、子どもたちが見事に課題から本時のまとめまで授業を進めることができたらどう?

(算数の授業を例に)
本時の課題をすべての子どもがつかんでいたら授業始められる。ってことは前時にかかってくる。「次の時間の課題これやね」ってこれで終われば、次の時間の課題はもうある。
忘れてる子もいっぱいいる。「忘れたから授業に参加できません」なんてことになれば大変だけど、「今日の課題なんやっけ?」「これやんか」「ああそうか」って・・・これが「安心」。
「じゃあこの課題どうやって解決していく?」って。4人のグループなら4通りの、その子の今の力に合わせて解決していく。だから全員が主語になる。

こんな授業めっちゃ楽しい。子ども一人でできないから。

子ども同士が学び合う姿見てたら、授業者は、「この子今外れてるな。」とか、「ここちょっと間違った方向に行ってるな。」って思ったら、「これってどう?」って問いかければ軌道修正できる。
自分が一斉授業してたら軌道修正できない。

いろんな学び方がある。それを画用紙を使ったり、AIを使ったりいろんな形で発表し合う。
その中で先生がひとつだけ発問すればまとめになる。
「ねえねえ、共通点は?」
って言えば、必ず指導書に書いてあることにたどり着く。じゃあまとめようって・・・。
みんながいろいろ書いた黒板と、自分のノート見て、全部満足してたら何も書くことはない。でも、この考え自分のノートにない。「この考えゲット!」って思ったら、自分のノートに書く。赤で書いたり色変えたりして。これがまとめになって、次時の既習事項になっていく。たったこれだけの授業を小学校だったら6年間積み上げて中学に行く・・・

先生は何教えるか?
子ども同士で学び合いができる、学び方をきちっと教えなあかんのちゃう?学び方を教えたら子どもは学んでいくから、あとは先生は授業から学ぶ。子どもから学べばいい。
この学び方っていうのは、各教科の特性にもよる。
正解なんてどこにもない。
でも「おもろかった」って書いてるときはいい感じ。30人が同じ方向で書いてたら、その時間、子どもが主語になってるって評価していい。


どうすれば、みんながやり直しできるようになるの?(小5の子どもからの質問)

「反省」より「やり直し」

反省文を書かせる、反省させるっていう空気に疑問。
映画「みんなの学校」での印象的な場面。泣きながら「ぼくは人を殴らないようにしたいです!」って言っている子どもの姿。あれが本当のやり直し。あの姿はどう生まれたか?

先生たちがやり直しをしている姿をいつも見ている。
一人でやり直しをしているのでなく、それを見守る先生たち、クラスメートの温かいまなざしがある。まちがえはみんなある。だからみんなで支え合う。
先生が仮面をかぶっていて、「私はまちがえない」「私は正しい」という雰囲気の中では子どもたちもやり直しができない。
ちょっと失敗したくらいで、もうやり直しがきかないみたいになると視野が狭くなる。普段から失敗してもやり直せるという雰囲気作りが大事。命さえあればやり直せる。失敗しても大丈夫な状況を伝えていく。

失敗はいいこと?悪いこと?

学校での失敗は悪いことですか?いいことですか?先生たちどう応える?

いっぱい失敗していっぱい学んでほしい。私たちもサポートできるし、いっしょに考えられる。

子どもが友だちを殴った。
「ラッキー!やり直しのチャンス!これで学べる!」って思うか?
「あそこの親なんか言ってくるし、なんとかしなきゃ!早く謝り〜」って思うか?
この5年生の子の質問は、大人のこの大きな分かれ目を見透かされている気がする。

「失敗してもいいんだよ」って言いながら、でも「暴力はいけない」とかって、みんな思ってる。
それだったら、「大人がみんな、生まれてからずっと子ども愛して、それから小学校入れてよ」ってそこにつながる話。
殴ってしまう子がいるのがあたりまえ。
じゃあ殴られた子は殴った子がどうなってくれたら安心できる?そこはずしたらあかんと思う。

あの子(映画の子)も殴りたくない。どうしたら殴らずにすむか?どうしてもイラッとして殴ってしまう。そこをものすごく時間かけて自分のためにやり直しをした。中学行ったら、ただの一度も暴力を振るっていない。

先生って必ず指導をする。
指導=罰=別室指導 
中学で生活指導など縛りが強くなる。
高校では「殴る子は学校へ来てはいけない」となる。
いつになっても安心する学校にならない。

先生が罰を与えず、指導という名のもとのジャッジをしなければ、やり直しは成立していく


どうすれば、全ての子どもが安心できる場をつくれるの?

大人が整えた環境でしか学べない子は、多様な社会で生きていけなくなってしまう?

<子どもが安心できる=先生も安心できる>新たなシステムとは?

「教室は間違うところ、まちがっていいんだよ。」って言いながら、「わかる人?」って聞く。じゃあわからない人は黙っていなさい?安心して失敗できるってことと矛盾してる。
「わかる人?」「できる人?」って先生が聞いて、手をあげて先生に指名されて、先生に指名されなければ、自分の考えを言えない授業がまだあたりまえにある。
そんな先生たちが変わるなんて至難の業。
じゃあそんな先生の前に余儀なくされている子どもは、どうやって安心して学校へ行ける?

一人の教員の資質能力に頼った学校はもう通用しない。そんな先生がいても、子どもが安心できる学校にするための新たなシステムをつくるしかないというところに行きついてる。

複数担任制っていうか・・・。生徒が主体的にこの先生に話したいって選べるといい。先生が、「自分のクラスだから」って責任感に押されて囲い込んでしまったり、一生懸命になり苦しくなったり追い込まれてしまうこともある。いろんな先生で、子どもたちを見るシステムなら先生たちも楽。先生たちも対話の中から生まれてくるものとか、やり直しも含めて、安心できる環境ができるのでは?

子どもが担任以外の先生に相談すると、「なんで私に相談しないで他のクラスの先生に?」って思ってしまう。自分が担任でこんなに一生懸命やっているのに・・・など自分に向いてしまう。そこを払拭しないと、誰にでも相談できる学校はつくれない。
誰に相談してもいいような、先生同士の信頼関係とかも大事。
子どもも誰にでも相談できるし、先生たちも児童生徒の前では平等で、安心して子どもたちの前に立てるような環境が大事。


私たちのプライドとか、自分に相談するべきとか、もう時代的にそういうことを考えている場合じゃない。
子どもがSOSを出しやすい環境づくりってそういうこと。
誰に相談してもちゃんとつながっているという安心感、秘密も守られるし、先生たちの横のつながりもあるし、「みんなで見てるよ」っていうメッセージが、学年とか学校で、校長は全校朝会で、学年主任は学年集会で毎回伝えるべき。それが安心安全につながる。

これが子どもを主語にした学校づくり

すべての子どもがこの学校をつくる当事者になれればみんな学校に来れる。
自分で学べることをみつけたり、やり直しも自分がしたいと思ったときにできるとか、誰かにやらされるのでなく。そうすれば安心できる。

子どもが嘘をつく環境をつくっているのも大人。
子どもは失敗したことを問い正されて、反省文書かされて、親に言われて・・・これだと嘘つくようになる。そのうち学校行けなくなる。

やり直しは永遠。人と人が共存するために。
やり直しのたびにアップデートできる。

子どもの言葉で言えば、「失敗したとき怒られなければやり直しはできる。」
「やり直せ」と言われてやり直そうなんて思えない。どうせわかってくれない相手に、正直に「やり直したい」なんて言っても信じてもらえない。信じてくれないのになんで大人の言うこと聞かなきゃいけない?ってなる。こういうとき忘れてはいけないのは子どもは社会的弱者だということ。

どんな子もみんな心の底ではよくなりたいと思っている。(大村浜さんのことばより)それを信じること。そして、やり直せたとき見逃さないこと。

小中行けず通信制の高校に行っている子に聞いた。
「今30万の子が学校に行っていない。わたしらどんなふうに変わったらいい?」その子はひとことこう答えた。
「大人は子どもを信じて委ねる。これをしてほしい。」と・・・


絶対外してはいけない1番大事なこととは?

安心する学校というところで、うまくいかないことは山ほどある。いろんな子どもの事実や環境をまのあたりにする。
指導、評価、学力、というところばかりに視点がいくと、大事なものを外す。
「命」や「人権」ということを「指導」「学力」より1番てっぺんに置く。
そこに視点をあてて、今ここに置かれている現実を考える。小さなことも、この子にとってどうか?見逃していることも山ほどある。でもみんなで見ようとする大人のまなざしが大事。(卵アレルギーのお話)

困っている子が安心できる学校をつくろう。
そうすれば他のみんなも安心して来れる。


「大人の良かれは子どもの迷惑」(金子さん)

「やりなおし」がどんな幸せにつながるか?

それは他人のせいにしない自分になれる。
これがウェルビーイングにつながる。



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