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「子ども主語」ってこんなに学んでるのに・・・

〜エドカフェ第32回より〜
今回はテーマからしてツッコミどころ満載⁈
https://www.youtube.com/watch?v=FukmiSOpJUU

暗いところはどこ?

年度末を迎えて、「楽しかったね!いいクラスだったね!」って・・・
それってさあ・・・◯十年前と同じ年度末の話ちゃう?!
最初からぶっ壊してる感じだけど(笑)
これまで「もう先生が主語の学校は通用しない。子どもが主語の学校づくりしよう」ってずーっとエドカフェで話してきた。
今先生たち語ってくれたことって自分が主語になってない?
「いいクラスだったね」って・・・。
そんなのつくってたらあかんのちゃう?


今までならいい。でも、今・・・時代のせいにしたらあかんし、コロナのせいになんてしたらもちろんあかんと思うけど・・・

こう言ってる私も、現場にいたらみんなと同じこと言ってたと思う。みんな一生懸命言ってくれてるけど、それ今までの学校のあるあるやん?年度末はやることいっぱいあって、進学とか・・・それ当然。

でも、みんながみんな、わあ〜っと、1年間終わって、「じゃあね〜」じゃなくって・・・。

この時期ひとりぼっちになる子がいる。
もっと言えば、学校に来てる子はそれなりに姿が見えるけど、全国30万人の子は学校に来てない。みんなの現場にも学校に来てない子いる。先生としてこの子のこと、どう考えたらいいんやろう?って・・・そういうことが上位目標に出て来なきゃあかんのちゃうかな?って・・・。

人は暗いところにいたら明るいところは勝手に見える。でも明るいところにいたら、暗いところは見えない。
じゃあ暗いところはどこ?っていつも探さなかったら、暗いとこなんて見られない。
だから、この時期になったら、見えているところはいいけど、見えてない暗いところはどこなんやろうな?って・・・まずは、そこ。
今の私はそこ見るかな?って・・・

なんか最初からドカン!でしたか?空気止まりましたか?
今日も楽しみましょう(⌒-⌒; )(泰子さん)


ひとつの象徴的な例が卒業式

先生方は、卒業式をなんのためにどういうふうにやっているか?どれくらい考えて卒業式をつくられるか?知りたい。先生方にお聞きしたい。
「集大成の姿を見せたい!」という気持ちになりやすいと思う。その功罪ってあるかな?と思って・・・。学校や先生方によると思うけど、どれだけそこを深く考えておられるか聞きたい。(一徳さん)

卒業式って、来賓主語でも保護者主語でもない。教員の、自分達の「どうだ〜?!」って、それこそとんでもない。税金で給料もらってるんだから・・・
卒業式は一徳さん言ったように、なんのためにあるんや?っていうことでしょう?
子どもたちが「こんな卒業式したい!」ってそこが大事。
ありきたりの呼びかけとか、先生にありがとうとか・・・もう私ら給料もらってるし・・・お父さんお母さんありがとうも家帰って言えばいい。じゃあ卒業式はなんのためにある?って対話を重ねて、みんなの合意がなかったら、卒業式って見せるイベント・・・でも、毎年違う卒業式をつくらなあかん。じゃないですか・・・(泰子さん)

なんのための卒業式?なんて対話どのくらいの学校であるか?ほとんどない気がする。(一徳さん)

入学式と卒業式は最初と最後の授業という話だった。これだけ子どもを主語に・・・って言ってるのに、その授業自体先生たちが提供するんじゃだめですよね?(しのマネ)

すべての子どもが参加できてる?名前呼んでもいないとか・・・この子は学校に来てないからしょうがないって・・・子どもらもつまらんなって・・・もうすぐみんなと別れるって思っているそんな大事な時に、卒業式の練習?よびかけの練習とか、礼の練習とか、入退場の練習とか・・・6年間学んでて、今更卒業式で礼の練習する学校って残念すぎるやろ?そんなおかしなことがいっぱいある。気づいてる人もいっぱいいると思う。でも、気づいている人が、それを言葉にして、行動に表さなかったら、自分以外の他者には気づいてもらえない。
誰1人取り残さない卒業式ってどうやったらできる?っていうのが、子どもが主語の卒業式やろ?(泰子さん)


たったひとりの卒業式

5年生で、学校に行った経験のない子が大空小に来た。みんなと一緒の教室はあまりにもハードル高いと、職員室の汚い机で自分の場所みつけて学んでた。「卒業式どうする?」って聞いたら、「1人の卒業式をする」って・・・他の子に話したら「あっそっか〜。自分で決めたならそれでいいんちゃうか?」「ひとりの卒業式応援してるで〜」とか、「うらやましい〜」とかいろいろ言ってた。
全職員がなんにも打ち合わせしてないけど、他の子たちとおんなじように卒業式をやった。
そこで得たものは?その子が何を感じたかはその子にしかわからない。でも、「自信持って中学行くわ。」って、元の家に戻って、元の小学校の子たちが行く中学へ行った。

私ら職員がものすごい学んだ。私らが、自分を変えることができたのが、この1人の卒業式だった。(泰子さん)


子どもを見るのが私らの仕事。

子どもは年度初めや年度末だけじゃなくて毎日みなきゃ。
子どものこと見るだけが、私らのプロたる所以ちゃう?

事務処理下手でも、パソコン使えなくても、保護者にギャンギャン文句言われても、校長に「おまえ、もっとがんばれ!」って言われても、そんなんええねん。でも、自分の目の前にいる、子どもを見るって教師のプロたる所以。「プロや!」って言えるで。自分の目の前にいる子どもを見る。そんな無理せんと・・・。

この時期(年度末)は子ども育っているから、自分たちのやりたいことどんどんやっていく。私ら1番楽なとき。先生やることない。「大丈夫?なんか手伝いましょか?」っていう感じ。

だから一徳さん言うように、来年に向けて、存分に温泉に浸って、子どもたちから学んで、「じゃあね、バイバイ」って・・・別れるのが寂しいとか・・・こんなん言ったら冷たいって思われるかもしれないけど、そこで止まってたらあかん。そりゃ心の底ではあの子もういない、寂しい、とかあるけど、それは心の底にしまっといたらいい。先生っていう商売は。表に出すことじゃない。

だからこのテーマはツッコミどころ満載!
年度末だからって特別力を入れることじゃない。

小学校の卒業式はゴールじゃない。ただの点。運動会も。すべては点。卒業式もただただ子どもが大人になるための点。「いい卒業式ができた」って私ら自分たちの肯定感を高めてきた。
でもあくまでも点や。点。(泰子さん)

なぜ先生になりたいか尋ねると、「先生に変えてもらったから、自分も子どもを変えたい。」っていう学生がけっこういたり、先生になることの素晴らしさを伝える資料として、卒業式で子どもたちが先生にお礼を言っている動画が使われたりすることに違和感がある。
それこそ教師主語。教師主体すぎる。
自分のおかげって、そりゃどっかにないとしんどいかもしれないけど、それに支配されちゃうと、教育の営みからかなりずれちゃう気がする。(一徳さん)


見せる卒業式?つくる卒業式?

「この時期なにをするか?」って「この時期」はいらない。それは平素から。
卒業式のために急に練習をギャンギャンやるってそれこそ何のために?って思う。
礼はそもそもなんのため?人に見せるためじゃなくて自分をアップデートするため。それが、周りとつながった!って・・・号令があったらやらされる礼やんか?そういうところは普段から、一年生からやって六年生。
学級担任制が君臨していると、「私のクラスよかったね。」「二年生になったら残念やね」って・・・残念て言われた先生と、前の先生よかったと言われた先生と、どんな関係性になる?これあるあるでしょ?どこでも。

子どもから学校という形のスーツケースに矢印が向いたらこれは正に教員が主語。でも、学校から子どもに矢印が向くから、学校のキャパが風呂敷に広がって、主語はその上に立っている子どもになる。
その発想で行事を見たら?
見せる卒業式なのか?つくる卒業式なのか?
普段から自分が学ぶ自分の学校を自分がつくるのか?先生に言われたことをやらなあかんから学校に行くのか?そこを日常から問い直さなかったらあかんのちゃう?(泰子さん)


「形」も機能しないと意味がない

「形(礼、歌、呼びかけなど)に心を込める」という参加者の発言から。
「形から入る」という言葉があるが、形はワーク(機能)しないと意味がない。それが機能するか常に問わないと本当に形だけになっちゃう。

たとえば「礼」はなんのため?
自分をアップデートするために機能するのであればいいけど、全然関係ないただの形っていうのは、意味がないのでは?

「ふりかえり」も、日常から自己選択して自己決定して自分たちで学校つくって、自分たちで失敗してやり直ししてって、常にそういう機会があれば、そのたびに振り返っていると思う。いちいち「はい、ここで振り返りましょう」みたいになると、結局レールの上に乗ってきて、振り返る。またレールに乗って振り返る・・・みたいな、そういうことになってしまわないとも限らない。日頃から自分たちでつくっていく、自分たちで決定していく、という場であれば、自ずと自分たちのタイミングで振り返るんじゃないか。
今、振り返り大事と言われているが、子どものタイミングじゃなくて「はい今振り返りましょう」とやらされることの不自然さも感じる。(一徳さん)


子どもを主語にしたらこんな変化が・・・

ある先生の話。
みんなで「ひとつになるぞ!オー!」とやっていた先生が、だんだん「それっておかしいな」と思うようになり、「自分たちで」・・・と子ども主語になっていった。
卒業式の子どもたちの反応もどんどん変わっていった。
昔は先生のまわりに集まって泣いて「ありがとう、ありがとう」という感じだったが、だんだん先生が無視されるようになった。
さすがに「一言もないの?」と言うと、「自分たちのつくってきたクラスだしね。」って言われて、それがすごく清々しかった。とおっしゃってるのを聞いて、本当に日常の延長として迎えていくのも大事なことでは?と感じた。(一徳さん)


ふりかえりが型化されてない?

「またふりかえり?」「また反省?」というくらい、ふりかえりをやらされている子どもたち。
そもそもふりかえりの目的は?なんか書かせないと評価できないから?それは先生主語。ならやらなきゃいい。

子どもは未来に向かって学んでいる。
今、自分はどう感じて、どう行動するか?今の自分を語るのはふりかえりじゃない。
どんな大失敗しようが、「これからこうしよう」って子どもが自分で考えて行動していく力、これが自律する力って、山ほどこのエドカフェでも学んできたやんか?

そやけど、年度末とか卒業式とかなったら、これまでのあるあるが・・・でもこんなもんやねん。自分の中にやっぱりあるから、みんなでこうやって気づいて次に進めるわけやから・・・やっぱりエドカフェっていいですね?!(泰子さん)

ふりかえりが型化されてやらされている。
ずっと進んでいる時に都度都度瞬間的に爆速でやるふりかえりと、ちょっと時間をおいて、このへんで一回ふりかえってみたいなというふりかえりと、場面によって、人によって、どっちが向いているかがある。
でも、型にはまったふりかえりをずっとさせられ続けていると、逆にふりかえれなくなるし、未来に向かって自分をどうしていけばいいのか考えられなくなっちゃう気がする。(一徳さん)


今突きつけられている子どもの事実

今まであたりまえにやってきたことが、よかったなら、500人以上の子ども死なない。中学生で15人に1人、小学校で1クラスに1人学校へ行っていない。この子たちが家でどんな思いしてる?なんのために学校ある?学校が子ども苦しませているやん?そんな子どもの事実を私たちは突きつけられている。

自殺なんて0があたりまえ。みんな学校来るのがあたりまえ。このあたりまえをもう一回取り戻さなあかんのちゃう?

じゃあそのために、「卒業式どうする?」とか「修学旅行どうする?」とかじゃなくて、「普段どう繋がってる?」って、原点はそこ。
そんなあたりまえが忘れられていくってすごく変。
日本の学校教育の最たる課題は当事者意識の欠如ってみんなわかってると思う。
でも、今の辛い子のこの事実つくっている当事者は自分やでっていう当事者になってたら、まずは1番困っている子が困らない学校つくるのに何が大事?って思ったら、困ってない子はもっと豊かになるって思う。(泰子さん)


意味を後付けしてない?

「なんのため?」ですらまだ充分じゃない。
例えば「卒業式はなんのため?」って言ったら、卒業式をやるのが当然で、そこに意味を後付けすることになる。
でも、どういう意味であれば、みんなが取り残されずに、みんなでよいものをつくっていけるんだろう?とか、そもそもなんのため?より、どうあれば本当に意義のあるものと言えるのか?
意味を後付けしていくようなそもそもの問いじゃないなという感じがする。 (一徳さん)


すべての子どもが育っているか?

どんな卒業式であろうと、卒業式をやることで、今目の前の子どもたちみんながアップデートしたか?(「子ども」の前に「すべての」をつけなきゃいけない。)そこじゃない?

今までのままでも、全然違うものつくっても・・・卒業式なんて捨てて新しいものつくろうっていうのも・・・これもみんな先生が主語。

いつも原点に戻るのは、「子どもが」子どもの前に「すべての」がいつも抜けるけど、このことですべての子どもが育っているか?

それは教員だけじゃ見られない。サポーターとか、地域住民とか、様々な大人が学校にいて、360度から見ててくれて、初めて「この子育ってますか?」って言える。「子どもが育っているか?」そこを外したらいけない。
(泰子さん)

教育の目的を「すべての子どもが自由に生きられる。」「すべての子どもが自由の相互承認のための感度が養われる。」こととしたら、あとのことはすべて手段。教師や学校の役割も。
手段はいつでも対話を通して見直せる。

今日も原点に立ち返ることができた。そういうことが改めて見えてきた。(一徳さん)


自分で気づけない学びなんて楽しい?

すべての子からひとりの子をピックアップして、この子が育っているか?って、どうしたらわかる?

アップデートしたか、自分で気づいてないような学びが学校にあったらあかんやろ?毎時間毎時間、自分がこのことで、アップデートしたいと思って、学校で自分と違う他者といっしょに学んでて、自分がアップデートしてるかどうかって、気づけなかったら、学校来るの楽しないやろ?


他者にどう評価されようとブレない自分軸を

子どもの評価を先生たちがする。それに権力をもっている。自信をもっている。この状態は何よりも1番先に捨てなあかんのちゃう?
(シーン・・・なんか温度差感じたな・・・)

だって、幼児が中学生になるまでずーっと「あなたはこうよ。あなたはこうよ。」「周りに比べてこうなのよ。」って、これを「指導」って言葉で私ら洗脳してきた過去を持ってますが、そうやってずーっと先生に評価されて中学行く。じゃあどうやって、自分のこと大事にして、自己肯定感高めてって、子どもにしてみたら、先生が評価するの、なんでやねん?って思えへん?学校の学びが他者評価と自己評価と・・・自己評価ってメタ認知・・・この割合が、当然他者評価も必要かもわからない、でも他者評価が100パーセントみたいな、このあたりまえがある限り、自分で自分を評価したら、誹謗中傷されようが、他者にどんなこと言われようが、「あっそうか、でも、自分はこう考えてこうやな」って、「こういうところは自分の足りないところだから、プラスに変えたらいいわ」って、そう思える1人の人にならなあかんと思えへん?(泰子さん)

他者から事細かに評価されることは子どもの学びを非常に妨げるということが様々に実証されている。これはあたりまえ。学びに没頭するのを妨げること。
「この話聞いた後でテストします」と言われたら、その瞬間この話から学ぼうという気が失せる。それを何年も、何百時間もやらされてしまうっていうのは、私たちが子どもたちから学ぶ意欲を削いでしまっている。
でも、入試とか、そういうことを我慢する力も必要とかとよく言われる。

入試については・・・

自分軸がブレるから他者評価に怯える。自分軸をちゃんと育むことができれば、外面的な評価で何されてもびくともしない。序列化を伴わない多様化が大事。
例えば体育大学へ進む人と芸術大学へ行く人と同じものさしで図るのはそもそも変。
いろんな多様な評価軸があって、自分軸と本当に学びたいことが合致していく形の社会設計していきたい。
そうじゃなかったとしても、ずっと他人軸でびくびくするんじゃなくて、自分軸があれば、外装的な評価をされてもブレない。(一徳さん)

受動的忍耐より能動的忍耐を

我慢もやっかい。教育界に我慢崇拝がすごくあると思う。受動的忍耐と能動的忍耐とあるが、「いいから歯を食いしばって耐えろ。」みたいなのは受動的忍耐。これはすごくレベルの低い忍耐。
そうじゃなくて、私たちは自己選択自己決定の機会がいっぱいあって、自分軸で自分の人生つくっていけるってなると、もっとそれをうまくできるにはどうするか?そこですごく苦しむ。それを達成するためには、人間関係も粘り強く築いていかなくてはならないし、自己克服しなければならないことも出てくる。でもそれを能動的に選んで自分を成長させていく。そのための忍耐力の方が圧倒的にレベルが高い。そういう自分軸をもてるような学校にしていかなきゃいけないよなって感じた。(一徳さん)


ルソーの「エミール」より

ルソーは言う。
子どもの自然な成長が大事。
子どもはみんな生まれながらに自分を大事にしたいという自己愛をもっている。この自己愛があるから、他の人も大事にしたいと自然に思う。これが大人がよかれと思ってやる教育によってひん曲げられてしまう。競争させたり比較したりすることで、傲慢さ、虚栄心、嫉妬心、などにひん曲げられる。自分軸が失われ他人軸で生きていくようになってしまう。これはものすごく子どもを不幸にしてしまう。他人と比較し始めるとキリがない。私はオッケーと思えない。上には上がいるし自分の欲望は満たされることがない。「自分は自分、大事にしよう」と思えることが幼少期にはとても大事。学校はそれをもっともっと意識していきたい。(一徳さん)


いつも原点に立ち戻れるか?

岩手県の大槌町に行って学んだこと。
震災で3分40秒でなくなった街。
これ原点。
「命がなくなったら?」っていうこの原点にいつも大人は立ち戻れるかどうか?

3、11の次の日が中学校の卒業式だった。当然できなかった。でもしばらくして集まって来れた子どもたちと卒業式をした。
これまでなら保護者の謝辞で、涙ながらに「先生方ありがとうございました。」とお話される。それを聞いて教員はなんとなく満足してきた。
でもそのときの保護者の話は「先生たち、学校にいる子どもたちの命を守ってくれてありがとうございました。」その一言だけだった。
そんな子どもたちが自分軸をどうもって、どうやって今の未来のつくる大人になっていくんか?って、やっぱりそういうところから学ぶことはとても多かった。(泰子さん)


エドカフェやっぱり楽しいね!!

全国回っていると、どこに行っても「エドカフェの大ファンです。」って、「しのマネ見てたらすごく勇気が出ます」って、
「あまりいじめないでね」って言われる。
みなさんこの場を自分のものにしてくれてる。
私たちも否定されないって安心できるから本音で対話ができる。(泰子さん)


能動的忍耐だから大丈夫です!
本当に学ばせてもらって・・・
今年度も貴重な楽しい充実した時間を過ごさせてもらえました。
全国の大人も子どももみんなが対話できるきっかけになれたら嬉しい。

みなさま、また対話しましょう!!(しのマネ)


<特記>
エドカフェ大ファンの私たちは、1月の終わりに茨城県教育研修センターに行って、木村泰子さん&エドカフェメンバーのみなさんにお会いしてきました!!
みなさんのあったかさに触れさせていただき、あこがれの泰子さんとも繋がれて、力をたくさんいただきました。夢のような1日でした。


今までのエドカフェシリーズはこちらから ↓


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