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「教えるプロ」から「学びのプロ」へ

〜エドカフェ 特別編「自律を支援する感性を磨こう」〜
(エドカフェ初のリアル対話!泰子さんの言葉を拾い出しました。詳しくは動画をご覧ください。)

https://www.youtube.com/watch?v=GSKyAv3EmVY


10年後の社会で生きて働く力を


私らの仕事って、今目の前の子どもが、今必要な力をつけるんじゃない。

今必要な力だったら、中学受験とか高校受験とか大学受験のためにって・・・。

でも、こういう学力はもう通用しない時代に変わったから、新しい学習指導要領の目指す方向に今、みんな向かってる。

その力って今じゃなくて、10年先の社会で生きて働く力にならなきゃいけない。

正解は目の前の子どもにしかない


正解はどこにもない。
正解は目の前の子どもにしかない。

その子だって、10年後どんな自分になりたいかなんて、なかなか想像できない。
だから私らは、目の前の子の10年後の姿をただただ想像するしかない。ということは、正解のない問いを常に問い続けるしかない。

そう気づいたとき、じゃあ「どう思う?」ってそこからの対話を、現場の先生たちと、子どもの姿を真ん中に想像しながら、やっていけば、お互いの感性磨かれると思いませんか?

これが多様な時代の多様な学校教育の目指すところ。

正解なんてない。


「主体的対話的深い学び」って、今なんで文科から降りてきたのか?っていったら、やっぱりそこ!


「こうすれば子どもは幸せな人生送れるよ」って、私たちはこれまで子どもに「指導」してきた。
でも、「こうすれば幸せになれるよ」という正解をもう今、誰ももっていない時代に突入した。
・・・ということは、常に問い続けなければならないということ。


〜守るべきは学童のルール?学校のルール?こんなときどうする?〜

(学童のルール→ここは登っちゃいけない。学童でない子はそんなの知らない。先生に判断を求められた。というエピソードから。)

「どう思う?」(この問いをもう少し目的に近づける問いに変えるとしたら?)→「どうして学童の先生は登っちゃいけないって言うと思う?」

この問いを外したら、学校の先生は「いい」って言った。学童の先生は「いけない」って言う。と、子どもは大人を分断するようになってしまう。

知らず知らずのうちに人のせいにしてしまう。

こっちはそんなつもりないけど、これが子どもに返る事実。

大変なことが起きたとき、学校と学童が一致できず、分断されていると、結果的に子どもにとっても残念なことになってしまう。

「けがをしないため」ここが学童の先生も学校の先生も合意するところ。

じゃあ「けがしないためにみんなはどう考える?」って、そこから初めて子どもの自律の力が生まれてくる。


対話が成立するための条件は「対等」


対等であるための条件は?

私は先輩。先輩の言うことが正しい。これでは対話は成立しない。

正解をもっている人が対話で学びを得られるか?

学びって何?
気づくこと。新たな視点を知ること・・・


違いは対等。


この条件をみんなで合意しなかったら、対話は成立しない。

クラスにも、上手に喋る子、「うるさい!くそばばあ!」しか言わない子、重度の障害の子から・・・塾に行って中3の勉強までできる子から・・・いろんな子がいるのが地域の学校。

違いはリアルにある。

その違いを対等という関係性にもっていかなかったら、学びなんて成立しない。

学びって人を変えることじゃない。



人って変えられる?
どんなにいっぱい学んでスペシャリストになったって、相手を変えれると思う?

できるわけない。


50年前からがんばってきた結果、子どもの事実は?


でも、50年前、それができると思って、私ら教員はノルマとプレッシャーをかけられた。
「自分に指導力つけなきゃ!」「この子を育てなきゃ!」と思いながら、
「いい教師になろう」と思って、みんなそうやってこれまでの時代に教員してきた。

誰一人サボってなんかいない。
「この子変えよう。」「この子変えるのが自分の仕事」と思って、一生懸命やってきている。
その自分たちのやってきたことが、子どもの事実に返ってたらいい。

でも・・・

子どもの事実は、いじめ不登校自殺過去最多。


これが私たちがつきつけられている子どもの事実。
この事実が今あるってことは、これまで「これが大事」って自分たちがやってきたことが、今、子どもの事実に返ってない。

これが問い直し。

「だから今まであなたがやってきたことは間違っているんですよ」って・・・こんなの誰も言えない。

人を否定することなんて人にできない。よかれと思ってみんなやっていることだから。

でも、だから、ここからみんなで、問い直しませんか?って、いうのが、まさに今、学校に関わっている、すべての大人のやることだと思う。

じゃあ今までの自分とこれからの自分、どこをどう変えたらいい?って。


この過去最多が0になるのが、私たち大人の一番の使命


こんないい教育したよ。でも、1人の子が屋上から飛び降りて死んでしまった。って・・・やっぱり気づいていないけど、自分もそういうことをしているかもしれないっていうのは、みんなもたなきゃいけないと思う。

そう考えたときに、じゃあ教えるっていうことは、すべての主語が、教員にあるから、教員がいかにうまく教えるか?教えるスキルを身につけていく。そのスキルは目に見えるもの。
「こういう授業しよう」とか、「発問はこうで・・・指導案はこんなふうにやりましょう」とか、「課題をどう解決するか」とか、こういうこといっぱいやってきた。

それは必要ないとはいってない。すごく大事。

でもそれが自分たちの最上位目標か?って問い直しをした。


「学び」は自分のアップデート!だから楽しい!


学びって、人を変えることでなくて、みんなと関わる中で、気づいたり新しいこと発見したりして、今の自分がほんのちょっとでもアップデートすること。

自分がちょっと変われたってなったら、まわりに評価されなくても、楽しい。

これまでは、常に他者評価をもとにしてきた。

いい先生に教えてもらったら当たり!
先生悪かったら先生のせい。だからおれははずれ。
そんなふうに大人になった子、私が関わってきた子にもいっぱいいたかもしれない。

でも違う。

だから「自律」が必要。「自律」が出てきていると思う。


「説得される」と「納得する」は全然違う


これは単なる自分の考えでどこにも正解はない。
でも、A案とB案が出れば、「Aにしますか?Bにしますか?」って残念ながら多数決で決めてきた。
A案に決まったら、まったく違うB案を提案した人は、決まったからにはA案にしなって、自分の意志とは全く違うけど、合わせていくようなことを、残念ながら私は過去やってた。

「日本社会が求めるこの正解にあなた合わせなさいよ。」そういう結果残念なことが今いっぱい見えてきている。

Aも正解じゃない。Bも正解じゃない。
じゃあどうしてそう思うの?
私はこう思うけど、私はこう・・・って、対話をしていけば、AでもないBでもない、豊かなものが生まれる。
みんなが自分のことばを机の上におきながら、新しいものをみつけていく。そして自分でみつけたこの新しいものに納得する。

「教える」力は説得力をすごく高めた。説得されるから「わかりました」って言う。でも・・・

説得されるのと、納得するのと、全然違う。


安心したら脳が柔らか〜くなる


well-beingってこの瞬間、自分が感じて自分が味わうこと。そう考えたら、誰かが何かを教えてくれるんじゃなくて、みなさん、ひとりひとりがこの空気をつくっていて、この空気を自分自身が吸う中で、「安心」という言葉が生まれてくる。

安心したら脳が柔らか〜くなる。

「あの人が見てるから変なこと言っちゃいけない」とか、そんなこと思ってたら・・・?
一年生で、いすにすわって、手はお膝とか、ルールを守りなさい、手あげてお名前呼ばれたら、はいってお返事して、いすを入れてしゃべりなさいって・・・私ら50年前、大事やな〜ってみんなでやってたけど、そんなんしてたら、子どもの脳なんて一瞬で危険地帯になる。


目的を合意して対話を重ねる大人の姿こそが最高の学びの環境


ルールを守らせる・・・マニュアルを守らせる・・・スタンダードを身につける・・・これが目的になったら、結果として一部の子しか育ってないなって改めて感じた。

「自律」って、今この日本で学校教育を受けているすべての子どもたちに必要な学力。

まわりの子がもっていない特性をもった子が、大空小にいっぱいいたおかげで「この子の自律っていったいどういうことなの?」っていっぱい問い直しをした。

このきまりは、このスタンダードは、なんのためにあるの?
これを学校のすべての子が守れば、10年後の社会でなりたい自分になれるためのきまりなのか?

そこの目的を合意して、みんなでああだのこうだの対話を重ねていけば、そんな大人の姿がその学校の中の環境、空気になるんじゃないかな?


ありのままの姿を曝け出すのが何よりの指導


「指導者」という看板を背負っている限り、「目的」は、「自分はどんな指導をすればいい?」「そのためにどんな大人になればいい?」ってそのレールにしか乗れない。

でも、この学校の学び・・・それもすべての子どもの「教育」ではなくて「学び」を保障するために、自分はどんな環境をつくればいいんだろう?ってなったら?

すべて子どもを主語に考えたら、目の前の大人の言葉なり行動になる。

でも人は失敗する生き物。私なんか1番失敗した。

子どもたちが見ている大人の姿として「しまったな。今ちょっと、子ども説得したな。この子追い詰められたな」ってなったら「あ、ごめん、今の間違ってた。やり直すわ、ごめんな」って、こんな行動を、ありのままの自分を、子どもの前でオープンにさらけ出す。

これって、「指導」って言葉捨てようってみんなで言ってたけど、結果として指導できてるんじゃないか?ってそんなふうに思ったりもした。


ジャッジでなくて通訳


そう考えたときに、「これが大事」って与えられたものではなくて、いっぱい自分が失敗して、他者を傷つけたそのことに気づいたら、他者のためじゃなく、自分のために、失敗しない人間になるために、やり直す。

ジャッジではなくて、傷ついた相手と、傷つけた子どもと、この2人をつなぐために私たち学校の大人はいる。

じゃあ、「殴ったら悪い、あやまれ」「ごめんね。」「いいよ。」こんな文化、子どもたちもってるけど、そうじゃなくて、まず殴った子に、「大丈夫か?」って問いかけるようにした。
殴られた子には、「今さあ、この子、どうしたら殴らんですんだと思う?」って問いかけた。

殴られた子はみんな答えもってる。

例えば「これ見せたらよかった。でもこいつに見せたら返ってこないからイヤや。」など。
ここから初めて両者の対話が生まれてくる。
その対話を通訳するのが私たち。

通訳してたら、お互い知らなかったことを知るから、勝手に仲直りする。

ジャッジする力って正解いっぱいもってる。
でもみんな違う他者同士を通訳していく。
その大人にどうやったらなれるかっていったら、どこにも正解もマニュアルもない。

その子に教えてもらうことしかない。

子どもたちが教育を受ける時代から、子どもたちが学び取る時代に変わってきた。

でもなかなか実践できなかった。
私も全然できない。



教えるプロから学びのプロへ


学校の教員は、「教えるプロ」にならなきゃと思ってたけど、違う。自分が「学びのプロ」にならなきゃいけないなって・・・

でも「学びのプロ」ってどこにも答えないから、難しい。

どうやったら学びのプロになれてるかっていうと、やっぱり誰に学んでるか?
私たち大人は、困っている子が、困らないようになる環境をつくるひとりの一員になれてるか?
みんな違った自分をもっているそれぞれの大人。
だから多様な大人が必要。
自分たちで足りなかったら、保護者は「子どものサポーターやで」地域住民は「子どもは地域の宝やで」ってそんないろんな人が学校に来る。

先生が、守られた失敗しない画一的なスーツケースの中で子どもをどれだけ育てても、10年後の社会では通用しないってこと、みんな今気づいていると思う。


学校と地域はgive&takeを捨ててwin-winの関係性を


学校という環境を整えるには、学校に、教職員以外の多様な大人がいつも風通しよく出入りして、すべて地域の大人は、「あんたらの味方やで」っていうような環境をそれぞれの大人がつくる。

学校に頼まれるからじゃなくて、give&takeを捨てて、自分にとっていい、学校にとってもいい、win-winの関係性をどう地域とつくっていくか?

こういうことを問い続けた。


問い続けることは1人じゃできない

これでいい、よくできたな、って思えた日は残念ながら1日もない。これでいいと思った瞬間に、学校崩壊するやろうなっていう、そういう危険性は常に感じてた。

だから問い続ける。

問い続けるっていうのは、どんなスーパーティーチャーを育てても、1人ではできない。いろんな、しっかりした先生、失敗する先生、頼りになる先生、頼りない先生、って・・・

いろんな人が、いろんな個性をもった子どもたちの前で対等な関係として学べている、その関係をつくるのが、教員の大事な資質。


「子どもに失敗させない」「子どもを守る」は無責任


学校って「子どもに失敗させたらいけない」「子どもを守らなきゃいけない」って思ってしまうけど、それって無責任だと思う。

学校というこの組織の中の環境は、この子の10年先の社会の環境といっしょか?っていうこと。

そこからまず大空小学校という現場に行ったときに、みんなで考えた。

先生がいつも守って、言うこと聞いてたらいい評価もらえる・・・みたいな多様性の真逆、画一的な価値観のある、そんな答えのある学校の環境つくってたら・・・?

10年後の社会って、出てくるキーワードは「多様性」「共生」「予測困難」・・・もしかしたら10年後、日本の国に突然爆弾が落ちて、子どもの命が奪われることがあるかもしれないっていうような、これが予測困難な社会。


目的は、すべての子どもの学びを保障するということ。

子どもを東大に入れるっていう目的ではない。
ただただすべての子どもを誰一人取り残すことなく、ありのままの自分で、けんかしながらやり直ししながら学ぶこと。

失敗しなかったら責任なんて子どもに体験させられない。失敗をやり直すから、失敗が成功体験に変わる。だから自分の行動に責任をもつということに、子どもは充足感を感じていく。

正解なんてないけど、これが子どもから教えてもらったこと。

そう考えたら、学校って目の前の今、算数の時間にこの子どう自律しているか?って、そこを授業の上位目標に置いて、教科指導は、その上位目標につなぐための手段っていうことを、みんなで、合意した。
その上位目標に、自分が授業者として、つながらなかったら、どうする?って。

そんなの1人の人間に全部できるわけない。


教員はこの力さえあれば全員合格!


教員に絶対なかったらあかん力。この力さえもってたら、全員合格!
子どもを主語にした学校つくるための、教員の資質能力。
なかったらあかん最上位のものって?

それは・・・
「人の力を活用する力」

「自分には無理」って判断したら、「ちょっと頼むわ!」「私無理やねん!」「バトンタッチ!」って。

子どもは結果的に多様な大人と学ぶから、自分の中で、「あ、そっか、こういう考えもこういう考えもある、じゃあ自分はこうしよう」って、選択肢が広がる。
だから子どもは前を向いて行く。

気づいたら、自分ひとりではできないけど、自分の主体性で、「◯◯さん頼む。」って・・・これは情けないこととか、責任とらないことじゃなくて、教師が主語から子どもが主語に変えた学校づくりに、みんなが1番上位に置く、教員の資質能力。

このことをみんなで合意していた。

みんなで合意できるツールは対話しかない。


捨てなきゃ入ってこない


「こんな先生になりたい」とか、「こんな学校つくりたい」とか、新しいこと山ほど思う。けど、新しいことひとつ実現していくには、これまでもってた、今必要ないってことを、捨てなあかんと思う。


〜私が捨ててきたもの〜


1 自律させない自分。
「先生大好き」とか、「先生いい先生」とか、「先生のおかげで・・・」とか、子どもに、教員に対する依存をつくって従順さを求める。
誰でも捨てれると思う。すぐ拾いに行くけど・・・
拾いに行ったら、「今のアウト!」って言ってもらう。だからもう一回捨てれる。

2 違いを認めない自分。
違いを認めるっていうけど、違いを認めてきたかな?同質性を求めたり、自分の評価下がるから、マイノリティーを切り捨ててきたり、そんな自分てあったなって思う。

3 対話の機会を与えない自分。
対話大事って言いながら、授業の中で、自分ばかりしゃべって、子どもたちに対話の機会を与えない自分。

4 ジャッジする自分。
子ども同士の対立をジャッジで解決してないか?通訳で解決してるか?
大人もいっぱい対立する。

5 正解を説く自分。
正解のない問いを問い続けるのが10年後の社会に生きて働く力。子どもの自律につながる。
「これが大事」「将来困るで」とか、「人のためやで」とか、これまで正解を説いてこなかったかな?


自律させない、違いを認めない、対話の機会を与えない、対立をジャッジで解決する、正解を説く。

少なくとも、こんな自分を捨てたらなくなるから、必然的に新しいものが入ってくるんちゃうかな。



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