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シンプルに子どもだけみてたらいい

〜第27回「年度はじめの出会いを問い返そう」〜
※木村泰子さんの言葉から印象に残ったところを書き出しました。詳しくは動画をご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=2PvNsp5E0NU&t=54s


自分をアップデートできるのがエドカフェ

緊張するっていい。
でも緊張して言葉を選び始めると自分の言葉で語れなくなる。これを言おうとか、こんなふうに言わねばならぬとか、これを言ってはいけないなとか、そんなふうに思って自分のことばを発するというのは、自分のことばを伝えるまでに時間がかかってしまう。

でもこのエドカフェっていつどこで何が起きるかわからない。
不安定不確実な状況でどれだけ自分が活躍できるか?
これが今正に世界中が求めている人材。

だからエドカフェはすごく学びの深い場所。何を言っても許される。
もし自分が言った言葉で誰かが傷ついたと気づいたら、「ごめん、もう一回巻き戻しするわ」って自分がやり直しをすればいい。

言う前にどう思うかな?って思ってしまうと、安心して言葉を発することができない。言ってしまってうまくいかなければやりなおせばいい。そのためにこのメンバーがいる。

学びって人を育てるんじゃなくて自分がアップデートすること。アップデートするためにこのエドカフェの心地よさは絶対他者を否定しない。
他者を否定した人間は自分の学びにはつながらない。
自分の言葉で語ることと、人を否定することは大きく違う。

みなさん存分に安心して楽しみましょう!


「受け入れる」って何?衝撃エピソード

「みんなの学校」として取り上げられてから、「大空小学校は障害のある子どもたちを受け入れている学校」と言われるが・・・

健常者の中に障害者を受け入れるって無意識に使っている「受け入れる」っていう言葉。
「私のクラスは誰1人取り残さず受け入れます」って・・・

そんなこと思っているからあかんのちゃう?!

みなさんどう思う?

全然学校行けない医学の診断受けている子が大空小に来れるようになった。「お母さん、こんな日が来てよかったね。
子どもたち受け入れ態勢バッチリ!」って連絡帳に書いた。
するとその子の母からは「心配です。」という返事が来た。
今は受け入れてくれているから行けている。
でも受け入れてもらえなくなったら?
受け入れる側が受け入れなくなったら?

この言葉に、先生たちは落ち込んだ。

保健室ならどう?
カフェをつくったよ。
フリースクールあるよ。

違うと思う。

最大の課題は当事者意識の欠如じゃないですか?
自分が自分の学びをつくる。自分がこの学級をつくる当事者。

30人いたら、30通りの自分が当事者でスタートしなかったら・・・

先生がなんとかして・・・とか・・・先生の当たり外れあるうちは・・・ここを問い直さない限り、誰1人取り残さないなんて現実的に無理では?

ひとりの自分が居づらくなるのは受け入れてもらえてないと思うからじゃない?

先生が君臨してて、「みんなで遊ぼう」って言った時、「みんな遊び嫌」って言う子に、「オッケーオッケー」って言える?
みんな遊びが嫌で学校行けなくなった子が大空小にはいっぱい来た。

受け入れてもらわなきゃならない学校作ってたらダメ。
「あんた何言ってるの?」「それつくるの自分でしょ?」「人のせいにしたらだめ」ってよく言ってた。

自分とは全く違った生活環境で育った方との出会いは貴重な学びのチャンス!


「無理しなくていいんだよ」

「子ども時代、転校して友だちつくれずにいたとき、担任の先生の『無理しなくていいんだよ』という言葉に救われた」という参加者の先生のエピソードを受けて・・・

自分の教員時代、山ほど失敗してきた。
「無理しろ!無理しろ!」ばかり言ってきた。
「もっと自分からしゃべり!」とか、「嫌なんて言わんとみんなやってるんだから」とか・・・
それがその子を育ててあげてるっていうおごりを教師ってもってしまう。

その先生(エピソードに出てきた先生)は、無理しないでいるその子を絶対守るっていう覚悟をもって「無理しなくていい」って言ってくれたと思う。

友だちできなきゃ問題?
そもそも友だちできなきゃ不幸になるっている従前の学校文化の思い込みってない?

誰1人取り残さないなら、床にすわって天井見ながらみんなといっしょに学んでる子をなんで椅子に座らそうとする?

いい先生、いい学級って・・・学級経営力をつけようなんて研修いまだにやってる研修センターとか・・・(ここカットね)

じゃあ無理させなきゃいいの?
何もしなくていいの?
これみんなモヤモヤすると思う。

無理しなくていいって言ったってことは、無理してるって気づいているから。「この子困っているな」って思ったから。

困ってるって気づいたからこそ出た言葉。指導力とか資質能力とかでない。難しいことじゃない。
人と人の関係すべてにあてはまること。

先生はこうしなきゃとか、ものすごい研修してきた。でもそういうのはみんなマニュアル。マニュアルなんてクソの役にも立たん。マニュアルがフィットしていた時代もあった。でも今は違う。
かつては、このルートに従えば幸せになるみたいな、そのルートにしたがって公教育や高校教育があった。

「先生のいうこときいてれば幸せになれる。」なんてもう誰も思っていない。
「指示号令命令的確に、子供を束ねて誰1人取り残さず育てなきゃ!」なんて先生たちは所詮無理なことさせられている。

難しいこと考えなくても、子どもだけ見てたらいい。

教える授業やってたら誰一人子ども見れない。教える授業やめたら45分の間にいっぱい子ども見れる。

高校でも、「問いを」とか「探求を」とか言いながらモヤモヤ状態で「大学受験どの大学へ何人とかやらなきゃならない」って先生たちいっぱい困っている。

そんなんじゃなくてまずは子どもだけ見てたら、「どうすればいい?」「こうすれば・・・」じゃなくて、その子が教えてくれる。教えてくれたら、「じゃあ私何したらいい?」って言える。

マニュアルとかスタンダードとか全部なくして、先生たち子ども見ながらもっとのびのびと学びを楽しんだらええんとちゃう?


パブリックの学校の最上位の目的って何?学力じゃない。
「すべての子どもの学習権を保証する。」
これ、大空小の目的じゃない。全国のパブリックの学校共通の目的。さまざまな価値観や経験をもった職員が集まって、学校を自分がつくっていくんだから。いつもここからスタート。どこの学校へ行ってもこの目的は同じ。
これに反対できる人いる?最上位の目的合意したら、あとはどんな手段でもオールオッケー。

ときどき手段が目的に変わることがある。そうすると必ず気づいたら子供は困ってる。気づいた人が「アウト」と言い合える職員集団にする。気づいたらやり直せる。

私なんかいっぱい言われた。「校長先生今のアウトですよ」って。言われて気づく。「じゃあやり直すわ」ってやり直せる。

アウトって言われることは評価が落ちることではない。自分が気づけるってことだから。そのために他者がいてくれる。自分で気づけるならチームなんていらない。でも1人のやることなんてこんなちっぽけ。

1人の子どもの命も守られないのがわたしらの仕事。だからアウトって言い合える職員室の環境をどうつくっていくかを大事にしてた。
決め事はそれだけ。

すべての子の学習権保障するのに必要なのは見える学力じゃない。見えない学力。
そこで四つの力。チャレンジする力。人を大切にする力。自分の考えをもつ力。自分を表現する力。この4つの力を自分が自分のためにゲットしようということで、言語化して、これを目的につなげるための上位目標にした。
算数のテスト0点でもいい。この4つの力をどうつけるか?算数のテスト100点とっても今の社会生きてかれへん。でもこの4つの能力を、メタ認知で自分がつけてたら、必ず生きていけるで。

あとは一個だけみんなで約束しようなって。ルールではなくて約束。自分がされていやなことは人にしない。言わない。だって自分が嫌やろ?って。でもこの約束毎日やぶる。自分以外の他者とおるから。必ずやぶる。自分がこの約束やぶったら、相手は必然的に傷つく。そうなったときが学びのチャンス。破った本人が自分のためにやり直しをする。

そのために説教も罰も全部捨てた。そのとき大人が必要になる。助けてって言ったら「よっしゃ!」って助けに行く。「ほっとけ」って言われたら放っとく。でも放っといてもいつまでもやり直ししない。だからじわじわと、「大丈夫?」「なんか困ってない?」「私やることない?」とか言いながらそばにいる。やり直せたら成功体験に変わる。成功体験をどれだけもって次のステップに行くか?これが小学校6年間で私たちが少なくともやれること。

そのために始業式がある。全校児童、保護者、地域の人もいるところで。「1学期は4つの力のどれにこだわる?」って。みんな考えてきている。
「人を大切にする力にこだわる人?」「じゃあそれにこだわるのはなぜ?」「この学校をどんな学校にしたい?」「どうバージョンアップしたい?」「そのためにどの力つける?」とひとりひとりに問いかける。毎学期自分の考えを全員が学習シートに書く。
終業式はその力がどうだったかを、メタ認知しながら自己評価する。次は、よりこの力をのばすか?それは置いといて別の力にいくか?どうするかは自分で考える。
子どもたちは毎日1日の終わりにさよならメッセージを書く。自分のことばで。私たちはそれを見せてもらって学ばせてもらう。
信頼されたらいろいろ書いてくれる。「あの子いじめられてるかも?」とか。子ども同士が一番わかってる。字がまちがっていようとそれは評価の対象でない。

算数のテスト100点取っても生きていかれない。でもこの4つの力つけたら生きていける。たったひとつの約束。やりなおしたら失敗は成功体験に変わる。


出会いの場面では・・・
初めて会った人には、自分から自分らしく自分のことを語ろうね。をみんなで合意。自分は◯◯組の〜が好きな〜です。(その子にしかできない自己紹介をして顔と名前を覚えてもらう)地域の方にどこかで会っても、「〜さん」って名前で呼べる。

若い先生がどうしたらうまくいくか?と悩む。でも、大ベテランのわたしらだってうまくいくのなんて100000000回のうち1回くらい。うまくいくなんて奇跡。新卒の先生がはじめから子どもといい関係つくるとか、授業うまくいくとか、そんなことできないことがあたりまえ。

「くそばばあ」って言ってもらえたら本望。怒られたり追い出されたり親呼ばれたりするってわかってたら「くそばばあ」なんて子どもは言わない。他でためたストレスをここで出しても聞いてくれるって思うから言える。

先生っていう二文字捨てる。「先生はそれいいと思うけど、学校の法則ではだめなんだよ。」とかそんなずるいことつい言ってしまう。45年やっててもうまくいかない時代。
うまくやろうと思うことを捨てなかったら子どもは学校に来れない。

だから「あなたは今のあなたのままで無理しなくていいんだよ」って新卒の先生に言ってあげなきゃ。(笑)


始業式も終業式も入学式も卒業式も全部授業。すべてが学び。
じゃあ入学式は初めての授業だからどんな授業する?って先生たちで話した。
卒業式は6年間学んだあと、子どもたちは自分のことばで語る。卒業式の練習なんてやらんでいい授業。授業に練習っておかしい。とか、みんなでああだのこうだの言ってきた。


子どもが一番求めている大人って、自分が困った時、なんにも言わない、なんにもやってくれなくても、そばにいてくれる大人。それを多くの子から学んだ。



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