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「先生のおかげ」って・・・?

エドカフェ〜第28回「学校行事を問い返そう」〜

※木村泰子さんの言葉を中心に、印象に残ったところを書き出しました。詳しくは動画をご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=2QDWcczlGCM&t=247s


もしあなたがこの学校の校長だったら?

〜ベトナムのセミナーで圧倒されたエピソードより〜

障害のある子がいなかった学校に、暴れたり飛び出したりする子が来た。
ある保護者に「こんな子がいたら私の子どもたちの学力が保障されない。申し訳ないけど、こんな子どもはどこか違うところに排除してください。」と言われた。

あなたがこの学校の校長だったらその保護者に何といいますか?

その校長先生は
「じゃああなたの子ども、よその学校へ行けばいいですよ。どうぞ出て行ってください。」って即決して答えた。

これどう思います?

すべての子どもたちが地域の学校で学べるようにしよう。
インクルーシブってこれだけ。

これを学び続けてきて、こういうことを公言する校長があたりまえに出てきている。いいとか悪いとかは横に置いておいて、おそらく日本やったらそういう親をなんとかせなあかんし、暴れてる子をなんとかせなあかんしって、その間で困り感をもつことがたくさんあると思う。

「うちの学校はすべての子どもが学べるインクルーシブをしますよ。その目的に合意できないんだったら、あなたが学校を選んでください。」って言い切れる校長ってすごいよなって感じてしまった。


大空小卒業生の意外な声


大空小の卒業生が大人になった今、大空小の一番印象に残っていることは?という質問に多くの卒業生は何と答えたか?

運動会やコンサートや修学旅行や・・・そういうことが上がってくるだろうと思っていたら、全く違った。

「毎日の普段の授業」

学校行事は授業の延長線上にあるもので、取り立てて行事のために・・・じゃないって、ずーっとそれは私ら職員室の大人たちが問い直してきた。
「運動会の練習って何?」「何のための練習?」「練習するために体育の時間使うの?」って最初の頃はそんな文句ばかりいっぱい言ってた校長だった。
運動会の学習とか、コンサートの学習とか、「練習」ってことばを「学習」っていうことばに先生たち変えていった。

卒業式は練習0時間の学校だった。
来賓に見せる行事とか、運動会は見てもらうためにあるとか、そこは絶対すてなあかんのちゃう?

入学式は小学校6年間の最初の授業。
6年間学んだ卒業式は、小学校最後の授業。
それがたまたま入学式であり、卒業式。
その間にいろいろな前例踏襲ではなく、今必要な、「これやろう!」みたいなものを行事のように入れ込んでいっても、それは到達点ではなく、ただの点。
入学式からスタートして、運動会があったり遠足があったりコンサートがあったりいろんな点がある。その点がつながっていって、その子の卒業式の姿がある。それをみんなが大事にしていた。

「印象に残っているのは普段の授業」という卒業生の言葉を聞いて、私たちはある意味のショックを受けた。あんなにコンサートがんばったのに・・・とか、「コンサートのおかげで今の自分があります」とか言ってもらえると変に期待していた自分達の鼻っ柱をスコン!と折られた。


子どもたちに成功させよう。いい思い出に。って一生懸命計画してきたのはなんだったんだろう?それを通過点と意識せずにそこがゴールだと思って作り上げてきた今までの自分を今すごく問い直している。(篠崎マネージャーのつぶやき)

入学式を学校行事と考えるなら、「入学式の目的は何?」って問い返した。
はじめて小学校に入った。「今からこの小学校でみんなといっしょに学ぶんだ」って、小学校に対する未来への希望を子どもたちひとりひとりがいっぱい自分がゲットするっていうことを入学式の上位目標に置いたら、そんな入学式をつくるために自分たち何が必要?って大人は考えていくと思う。
ひとりの子どもが「この学校自分がつくるんだ」っていう当事者になるスタートの日。
そう考えたら、何が必要なの?っていうところからいっぱいアイディア出てくる。

先生のおかげ?

〜ここで苫野先生より〜

よく教職の魅力に学校行事が上がってくる。
卒業式で「◯◯先生、今までありがとうございました!」っていうことを上げてくる。それがダメっていうわけじゃないが、そこを取り上げて「先生ってこんないい仕事」っていう。そこにちょっと違和感を感じることがある。

こんな言い方していいかわからないが、子どもたちを自分のアイデンティティを満足させる道具とまでは言わなくても、行事で目を輝かせた子どもたち、それを作った自分、とか、卒業式で大きな声でお礼を言ってくれる子どもたち、それをつくった自分、とか、それはそれで否定されるべきものではないかもしれないが、そこだけに大きなウエイトを置くのってどうなのかな?考えなきゃいけないな。ということを教育学部にいて普段から思っている。

あるカリスマ先生のエピソード。
子どもたちを引っ張ってすごく面白い授業をして楽しいクラスをつくっていた。
あるとき気づくと、だんだん「次どんな面白いことやってくれるの?」という感じに子どもたちがなって、すごくショックを受けて、学び直した。
自分が持っているコントローラーを子どもたちに委ねていこうというふうに気持ちが変わっていった。

毎年卒業式になると、みんな先生の周りに来て泣いていた。
あるときから突然、卒業式でひとりひとりコメントしても、誰も自分にお礼を言わなくなった。「このクラス作ったのは俺たちだ」という言葉が自然に出てくるようになった。それが絶対正しいというわけではないが、それってすごく教師としていいなあと思った。

大空の子どもたちも日常の延長に行事があって、「自分達が自分達でつくっているみんなの学校」っていう感じがある。
それがないと、いつも先生が握っているコントローラーを、行事のときだけ子どもたちに渡すふりをするような違うモードになったときに、そこがすごく印象に残ったりとか、それはそれで学校としてはあってもいいと思うが、次の一歩がなっていうのが今の大空の話を聞いていて思うところ。

学級担任制離したくないのは?

大空の子は「大空の教育が生きてます」とか、「先生のおかげ」とか、いっさいない。
「地域の方のおかげで今の自分がある」ということを語る子はあたりまえにいる。
でも「先生たちのおかげで今の自分がある」と言った子はひとりもいない。
「大空の教育は麗しい。」とか「先生のおかげ」って言われるのを期待する気持ちがどこかにある。でも違う。
子ども同士が学んで大人になっている。それがあたりまえ。

「先生のおかげです。ありがとう〜」ってその充足感を子どもと離れるときに感じれるから、担任として、すごく教師の醍醐味やと思っている先生たちが、学級担任制度を絶対離したくない。自分の王国をつくって自分が満足したい。あんたのクラスはいいけど、他のクラスからそれを見ている子、おんなじ学校の子どもたちがどんな思いで見ているか考えたことある?って・・・学級担任制を絶対離したくない先生は、教師が主語となって子どもを自分の手のうちに入れて、そういう能力をもっている人。「いい先生」みたいな。だから学級経営力とか、学級経営っていう言葉、はよ捨てなきゃ。学級経営力をつけるための研修なんて今どきやってたら絶対あかんと思う。


「子どもを信じる」の裏側には?

「先生がいない間に子どもたちが自分達で授業をやっていた」という参加者からのエピソードで、「先生は子どもを信じているから。」という言葉を取り上げて・・・

「子どものこと信じている。」という言葉の裏には?

せっかくいいこと言ってくれたんだけど、「子どもを信じる」って何を信じてるの?その向こう側にあるのは「裏切られる」って言葉やろ?

子どもを信じるってすごく麗しい言葉。でもこの言葉だけが教育界ひとり歩きすると?
子どもを信じない教師はダメ?

「子どもを信じる」という言葉の裏で、「教師を裏切らない子どもがいるってことを信じてる」のは危険。

「信じる」ってことは「裏切られる」ってこと。それも含めて信じるってこと。
こっちが勝手に期待してるだけの「信じる」でなく。(一徳さん)


大空の卒業式は1年間で一番ビビる。
「先生ありがとう〜」「先生のおかげで〜」なんて瞬間はない。
卒業式のその瞬間思ったことを自分から自分らしく自分のことばで語る。
それをずっと6年間やってきている。何が飛び出すかわからない。何を言われるかわからない。
最初はこんな卒業式怖くて嫌だと思う。でもそのうち快感に変わる。

失敗する。裏切られる。そういう経験をすることが大人も必要。


子どもが主語の学校をつくるには?

自分の学校を自分がつくってきた6年生がリーダー。
大人を巻き込んで運動会もコンサートも6年生が中心につくっていく。
先生たちは校務分掌を捨てたので、L研、B研に分かれて、L研の若い先生たちが子どもたちとタイアップしてつくっていく。

子どもが主語の学校をつくるには?
学校の組織文化(空気)を問い直さなかったら子どもが主語の学校なんてできない。

これは正解ではなくて単なる参考です。

学校の組織文化は学校の空気。
子どもたちはこの空気を吸って大人になって自分達の社会をつくる。
これを変えなければ社会は変わらない。

学校が変わる=社会が変わる

つまり、学校行事で子どもたちを見るまわりの大人たちがどれだけ変われるか?これが学校の大きなミッション。

学校行事(これが学校の組織文化のもとにある)には学校以外のすべての大人たちが参画するから。


学校行事ごとに問い返してきた、「捨てるもの」と「つくるもの」


「ヒエラルキー」から→「すべての人が当事者」へ 
子どもも先生たちもサポーターも地域の人もすべてが当事者

「前例踏襲」から→「創造」へ 
去年と同じ計画は却下。違っていればすべてオッケー。

「同調圧力」から→「違っていることがあたりまえ」へ
子どもも大人もひとりひとり違うのがあたりまえ

これをいつもベースにやっていたら、行事が終わるごとに少しずつ変わってきた。


さあ、ここからがスタート!





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