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みんなでつくろう!「みんなの学校」

〜エドカフェNo.25「私たちが考えるみんなの学校」〜

(動画の中の木村泰子さんの言葉を拾いました。詳しくは是非動画をご覧ください。)


「みんなの学校」の「みんな」って誰のこと?


日本社会で生きている人間全部ちゃう?

すべての大人が、今つくっているこの社会をバトンタッチする相手が、今、小中学校で学んでいる子どもたち。
この子どもたちにバトンタッチをするすべての大人が、自分の学校をつくるんだという大人の覚悟みたいなものがなかったら、子どもたちって、大人を信じられないのでは?

「いい大人にならなければ」と皆さんが考え始めると、きっと子どもは「暑苦しいよな」って思うと思う。

この話はまさに今、Now、学校現場の根幹にあるような大事な問い直しだと思う。

いい大人がいれば子どもは育つって・・・?
じゃあいい大人ってどんな大人?いい大人なんてある?ないと思うねん。

でも、「いい大人にならなきゃ」って思うから、大人はみんなしんどくなるんちゃう?
「いい先生にならな」と思うから、先生たちがみんな疲弊していって、働き方改革とか、休職みたいなことに繋がっていくと思うねん。

なんか、そこじゃなくてさあ、選ぶの子どもやから。
例えば私が、「私はいい大人になろう。みんなの子どもたちの私はスーパーマンにならなくちゃ」って・・・学校に、もしいるとするやんか?なら、子どもって、「うわあ、なんかあの人、銅像みたいな人」って思うやろなって・・・思うねんな。

子どもって10人いたら、いい大人って10通りあるってこと忘れちゃあかん思うんですよ。

校長が「いい教員育てたい」とか、「いい教員採りたい」とか、「いい教員がいる学校がいい学校」とか、こんなん50年前しか通用しない。

「なんでこんな先生まわしてくるの?」「この先生大変やんか」「校長の力ないからこんな先生来る」・・・私最初そう思ってた。こんなバカな校長やった。
けどな、わたしらの前ではかちかちになって笑ってくれへん緘黙の子が、氷のような存在になって「手え繋ごう」って言っても手え出せへん子が、そんな先生の前では、やわらかいマシュマロみたいなからだになって、しゃべらへんけど目と目見て笑ってる。
その先生のまわりで子どもらいっぱいいてしゃべってる。
こういう現実に何度もわたしらやり直しした。

「探求活動しましょう!」それって目的?手段?


今、上からいろんなことが下りてきている。
「学校出て探求活動しましょう」とか・・・

それをやっていっても、「あれ?」って・・・
そういうことをやっていくことで、自殺、不登校、いじめがなくなることにつながれへんかったらあかんわけやんか?
そういう探求活動ありきでやっていく・・・まさに今、地域の人のイベントでって・・・、これって目的と手段が混同されてるっていうことやん。

目的は、地域の人と出会う。
その目的は、学校の中だけで子どもが学んでて、10年後の社会つくる大人になれるか?って・・・
学校から外に出て、自分達の住んでいる地域の人と出会って、いろんなことを知って、この地域を10年後、あなたがつくっていくんですよ。っていう大人になる。
このことが目的で、手段は、イベントとか何やってもオッケーやん。

でもこの手段と目的がひっくり返ると、「コミュニティースクールをつくらなくちゃ」これが目的になってしまう。コミュニティースクールなんてあくまでも手段。
目的は、誰1人取り残さない地域の学校つくるため。っていうこと。
わたしらも何回もやり直しした。

繋がって継続するから地域が丸ごと変わっていく。
繋がった後、どれだけ進化継続していくか?ってところを自分たちでしっかり評価していければいい。継続せず、イベントで終わり、ってことがいっぱいある。

イベントするのにものすごい労力使う。
でも、イベントじゃなくて、地域の人とつながることに目的もっていたら、最初はちょっとしかけはせなあかんけど、そこからは、もうなんにもせんでもいろんなことが次から次につながっていくって教えてもらいました。大空小に。

本当に子どもって、「この人笑ってくれた」とか、「ありがとうねって言ってくれた」とか、「手えさわってくれた」とか、「肩ポンポンってたたいてくれた」とか、そういうことだけでも、その子の中に、自己有力感とか、自分のやっていることっていいんだよって絶対思ってると思う。

スーツケース捨てたら繋がった!


学校の枠はスーツケース。安心安全なスーツケース。
50年前は90%の子はこのスーツケースに入っていた。

でも・・・
不登校過去最多の今、この多様な時代。正解がなくなった予測困難な時代。
「今もいいスーツケースつくっているよ、私たちは。働き方改革って言われながら・・・」
「みんなここに入りなさい。なんで入らないの?こんだけ一生懸命いいスーツケースつくっているのに・・・」ってやってるわけやんか?

今、このスーツケースに入っている子って、50%もいってへんのちゃう?で、この50%の子が、10年後の社会、スーツケースがない社会に出ていって、どうやって日本の国をつくっていく大人になるんやろう?って・・・ここの問いを、今1番みんなは、真摯にもたなあかんのちゃうかな。

大空小では、「スーツケース放っちゃえ!」って・・・。
捨てたらなにもなくなって、スーツケース、風呂敷に変えようって・・・。スーツケース捨てたら見通しはよくなった。風通しはよくなった。
でも私らの風呂敷だけじゃ、学校来られへん、家で苦しんでる子の足元まで広がれへんのやんか。
地域の力借りて、どんどん広げる。子どもの足元まで風呂敷広がれば、「来い」言わんでも来るようになる。「風呂敷からもし誰か落ちたら、わたしらがまた乗せるから、学校は気にせずそのまま風呂敷広げて進めていってや。」って地域の方が言ってくれた。

学校説明会は9年間ただの一度もしなかった。理由は来てくれない人にちゃんと伝わらない。
毎月スクールレターで子どもの情報を地域の回覧板でまわしてた。

地域の人が一歩学校に踏み入れると、地域の宝がうようよおるやろ?障害あるとか貧困だからちゃうねん。困ってる子は毎日変わる。困ってる子を探して横にそっとおるだけで、「大丈夫?」「何困ってる?」「なんかできることあるか?」ってこの3つの問いかけだけで、なんか繋がる。


いい人ばかりじゃ学べない


学校に一歩入る。入ったらあとは子どもと出会ってもらう。子どもに関わってもらう。

その関わりが間違った関わりで、子どもが傷つくこともある。子どもにとっていい人ばかりが学校に来てたら10年後役に立たない。
「あの人こんなこと言ってた。」「あの人、学校にきたらあかん!」って子どもが言いに来る。
これが子どもの学びちゃうか?
たくさんの大人に出会ってその中で学ぶ。

「じゃああの人に誰が言いにいく?」「私イヤ!」そこから人選が始まる。私ら関係悪くなったら困る。地域の人に「子どもがこんなこと言ってんねん。」て言うと、「ああ、わかった、わかった。私言っとくで。」って・・・こうやって、人の力を借りる。

いい人ばかり学校に来てたら通用しない。世の中いろんな人がいる。その人を否定するんじゃなくて、その人の言葉や行動を問い直してもらう。このことをみんな学ぶ。ああ自分らもあるかもわからんなってお互いに学ぶ。


なんで夜中に涙が出るんですか?


ある高校に行ったとき、1人の生徒が相談に来た。

ぼくね、今ね、なにも辛いことがないし、高校に来てとても楽しい。でも、夜中に目があくんです。そしたら涙がポロポロ出てくるんです。

小学校でみんなと同じにできなくてとてもしんどかった。校長先生が教室しんどかったら校長室おいでって言ってくれる先生のときは学校に行けた。でも校長先生が変わって喜んで行ったら、「君の勉強するところはここじゃないよ」と言われて学校に行けなくなった。中学も行けなかった。

でも高校は行けるんです。それは地域の中にないから。
「みんなできてること、できないのはあんたが悪い。」という目で地域から見られていた。でも高校はその地域の外にあるから行ける。全然気を使わないし、学校に行くことってこんな幸せって思う。

でも、夜中に目があくと涙が出るんです。

しばらくして、別の高校生から届いたメールにその答えを発見!

この子の言葉はエドカフェを通してみんなが共有せなあかんかなと思うので読みます。

学校という牢獄に通うということ。
何も悪いことしてないのに、刑務所行きだと言われること。
みんなと同じようにして学校にいなさい。ほとんどの人にとって学校が刑務所でないからこそ気軽に言えること。
当事者からすると、ありのままの自分を真っ向から否定される場所。

「人に迷惑をかけるな。」
「まわりと同じようにしなさい。」
「ありのままの自分でいることの罪を償え」
と言われているような、暗くて重いプレッシャーを背負いながら学校に通い続けることが、どれだけ難しいか。

そのストレスは、なにも学校に行かなくなったからと言って、消えるものでもなく、ひとりひとりの意識から変わっていかないと、しんどい子はなくならないと思う。

「なんで夜中に涙が出る?」と質問してきた子への答えがここにあった。
そのストレスは、「学校に行かなくていい」っていう条件が設定されても、消えるものではないということ。


今もきっと苦しんでいる子がたくさんいる。私たちは学び直し、やり直しの速度を速めなくては・・・

気づいたら、やり直しをみんなでしていこうよ!
それが人と人が学び合うってこと。
気づいたら、地域が、社会が変わっていくから。
工藤(勇一)さんが言う。教育でしか社会は変われないって・・・


自分の子だったら?という当事者としての覚悟


大空小の9年間で、全員が合意できてたのは、
「すべての人が学校をつくる当事者になる」こと。
これっていつもブレてる。
「この子、いない方が絶対楽に授業できるよな」って先生思っちゃう。

「この子無理、ちょっとバトンタッチして」って・・・人の力活用するから当事者になれる。
システム変えないで当事者になるって酷だと思う。
どんなに暴れてどんなに友だちなぐる子でも、教員としてだったら、絶対おらん方が安全安心。
でも、「この子自分の子だったら?」「絶対放り出さないでほしい。」これが当事者。自分が当事者になれば、「ああこの子困ってるな」って、まわりの子が育つ。それがみんなの学校だった。

覚悟ってそれぞれがもってたらいい。
ここだけはずしたらあかん。
「困っている子いるのに放っとくなよ」って、これが覚悟。
自分が無理だったら、「◯◯さん代わって」ってバトンタッチできればいい。



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