見出し画像

【review】 美しい本 — 湯川書房の書物と版画展

湯川書房は、愛書家の憧れだ。「愛書」ということばを辞書で引くと「本が好きなこと。読むことにも集めることにもいう」とある。ならば「愛書家」とは「本を読むのが好きな人」あるいは「本を集めるのが好きな人」ということになる。わたしは「本をつくるのが好きな人」なので愛書家とはいえないのだが、それでも湯川書房は憧れの存在だ。

湯川書房とは、1969年に湯川成一さんがはじめた出版社で、意匠を凝らした限定本で知られる。辻邦生、小川国夫、加藤周一、谷崎潤一郎、村上春樹などの文学作品を、画家、版画家、染色家などの手仕事と組み合わせ、工芸品のような本を世に送りだした。1970〜1980年代には「限定本文化」なるものが花開いたそうで、湯川書房はその火つけ役でもあった。しかし、湯川さんの没年である2008年、その活動をひっそりと終えている。


さて、「美しい本 — 湯川書房の書物と版画」は、そんな湯川書房の稀少な本を集めた展覧会だ。とある週末、老若男女でごった返す鶴岡八幡宮界隈を素通りし、神奈川県立近代美術館の鎌倉別館へ。照明を落とした展示室で、ガラスケースに収められた一冊一冊に見入る。

しかしながら、本というのは、まったくもって展覧会に向かないオブジェクトだ。表紙を見せられても、本文が見たい。本文を見せられても、表紙が見たい。もっといえば、たとえ360度から眺められたとしても、その本を見たことになりはしない。手にしたときの感触、ページから立ちのぼる匂い、文字から聞こえてくる声……読んだときにはじめてわかる機微を体験しなければ、装丁の良し悪しなど計りようもない。本とは、五感で味わうものだ。

とはいえ、大人だもの、おとなしくガラスケースの外側から鑑賞した。それでもやっぱり、湯川書房の本はすごかった。時の流れという風雪を寄せつけぬ、凛々しき総革装。本からあぶりだされたかのような型染めをまとった布装。モザイクや箔押しといったデコールが控えめなのもいい。決して主張しすぎず、それでいてその本固有の個性をにじませている。

とにもかくにも、どの本もみな保存状態がよかった。限定本というのは稀少だから素晴らしいのではなく、稀少であるがゆえに大切に受け継がれてゆくから素晴らしいのだと学んだ。


わたしにとってひときわ印象深かったのは、加藤周一小品集『美しい時間』だ。その小ぶりな本は、ガラスケースの奥まったところに置かれていた。一切の装飾を排した象牙色の総革装。表面は陶器のようにすべらかで、凪いでいる。だが、それは奇跡的な均衡のうえに成りたつ静けさであり、ナイフで傷つけたなら赤い血がつーっと流れるのかもしれない。人間の皮膚さながらのぬくもりと脆さの両方を孕んでいて、妙に生々しくもある。

その皮膚を包み込むのは、染布で仕立てられた函だ。アルファベットで表記された手書きの題字が染め抜かれたその布は、表情に富み、ふくよかさがある。あまりに傷つきやすい皮膚を守る産毛のようであり、吹けば消えそな蝋燭の火を守る手のひらのようでもある。

ルリユール(工芸製本)の世界では、函はあくまで本を保護するものに過ぎず、作品と見なされるのは本のみだ。けれど、この『美しい時間』においては違うのだろう。本と函は分かつことのできないものとなっていた。


その函の染布を手がけたのは、染色家の望月通陽(もちづきみちあき)さんだ。望月さんは湯川書房と複数の本をつくった作家のひとりで、今回の展覧会でも染絵本『Oedipus』などが展示されていた。『美しい時間』は、そんな望月さんにとって初の「本の仕事」だった。

湯川さんと望月さんが出会ったのは、40数年前のことだという。静岡のとある肉屋を訪れた湯川さんは、店に掛かっていた暖簾に目を留めた。その美しい染布を見た瞬間「あぁ、この人にあの本の函を染めてもらおう」と思いついたそうだ。「あの本」とは『美しい時間』のことであり、その暖簾を染めたのが望月さんだった。肉屋から暖簾のつくり手について聞きだした湯川さんは、望月さんの家までやってきた。そして、暖簾や服地しか染めたことのなかった若き染職人に「本、つくらない?」といった。

この話からわかるのは、湯川さんという人がとんでもなく冴えたプロデューサーだった、ということだ。望月さんはその後、湯川書房のみならず多くの出版社と仕事をし、『宮本輝全集』、中上健次と鎌田東二の対談集『言霊の天地』、谷川俊太郎『虚空へ』、小川洋子『密やかな結晶』、辻仁成『ミラクル』……数々の名装丁を手がけることとなった。


ちなみに、湯川さんとの出会いのくだりは望月さんから直接聞いた話だ。約2年前、『Book Arts and Crafts』という小冊子で望月さんを取材したときのことだ。取材の折、望月さんはこれまで手がけた本を惜しげもなく見せてくれた。湯川書房の『出埃及記』や『Oedipus』ですら、「手に取ってみて」といってくれた。手のひらの汗をハンカチで拭いながら、恐る恐るふれた。さきほど「本とは、五感で味わうものだ」などと書いたわたしだが、「ただし、緊張していると味がわからなくなる」と加えておこう……。

その日は本当にたくさんの本を見せてもらった。くらくらするほど贅沢な時間だった。しかし、記念すべき初仕事である『美しい時間』だけはその場になく、以来、いつか見られる機会があればと願っていたのだ。


この「美しい本 — 湯川書房の書物と版画」展にて、やっとミッシング・ピースを見ることができた。だが、展覧会は撮影NGで、図録もない。湯川書房の本たちの残像は、わたしの中ですでに輪郭を失いつつある。でも、それでいいのかもしれない。同じものをつくりたいわけでも、つくれるわけでもない。像が霞んでもなお感じられることだけを、わが製本の肥やしとしよう。


● 「美しい本 — 湯川書房の書物と版画」
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館
2023年1月21日〜4月16日
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/annex

● 『Book Arts and Crafts Vol.6』(本づくり協会)
*特集「本という浪漫 ― 美術家・望月通陽さんの装丁」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?