「故郷」こきょう 故阿部支部長にささぐ

2012年5月 私が住んでいた石巻市の仮設住宅がある地域の隣の地区で座談会があった。
今から約12年前である。

私と地元女子部二名の三人で創った復興支援チーム、「チームあい」で復興支援の歌の1曲目を披露し始めた時期でもある。
その地区はボーカルのKちゃんの地元の地区だった。
担当幹部は、石巻躍進県のT県長(当時)。T県長は最後の幹部指導の冒頭、実はですね、と言って話を始めた。
T県長ご自身も、女川(おながわ)に住んでいた妹さんご夫妻を津波で失っている。正確には未だ行方不明のままである。

「女川の阿部支部長が、病を抱えながら女川のみんなを励ましていたんですが、大変残念ですが二日前にお亡くなりになりました」と話を始めた。
その話を聞き始めた途端、私は涙があふれはじめて止まらなくなった。

(病気だったんだ!病気?あれだけ奮闘されていたのに、病気だった、、)
私は阿部支部長が病を抱えながら、闘っていたことをその日の座談会で初めて知ったのだった。


町のほぼ八割が津波にのまれ、21.8mの津波が、女川町の高台にある女川町営病院のビルの一階まで到達したことが、そのビルの柱に、今も刻まれている。場所によってはそれ以上の高波が山肌を上ったと言われている。
多くの町民は亡くなり、同志の方々も残念ながら多数犠牲となられた。いまだ行方不明の方も多くいらっしゃるのだ。

女川町は震災後、瓦礫を取り除くだけでも大変な時間がかかり、鉄筋コンクリートのビルがいくつも横倒しになったまま、数年間放置されていた。
震災の翌年には、復興支援関係で繋がった京都の男子部の方や東京の女性議員の方などを案内しながら、その高台の上から、倒れたビルがいくつも横倒しになったままの現状を見ていただいた。
みな一様に津波の破壊力がどんなものなのか、あらためてその想像を絶する恐ろしさに驚いていた。2012年当時は盛り土の工事が 少しずつ
進んでいたが、町はようやく発災1年後にして復興の槌音が鳴り始めたばかり。その2012年5月の座談会の折に、支部長の訃報を聞いたのだった。

私は男子部時代に女川部を含む4支部のある東石巻本部の男子部本部長として戦っていたことがあった。折伏戦の折には、数か月間ほぼ毎日夜、家庭訪問をしていた地域だった。自宅から車で40分ほどの地域。
町の隅々まで知っていたが、震災後に初めて女川に行ったとき、どこがどこなのか、わからないほどに何もかもが無くなっていたことを想い出す。

そんななか、
町の高台にある避難所や、やがて仮設住宅が出来上がった中で、大切な同志一人一人をはげまし、皆の希望の星であった女川三羽がらすの中心者であった阿部支部長、、、。

その日の夜、仮設住宅に戻って2曲目の復興支援の歌、「故郷」(こきょう)の
5番目に、阿部支部長への思いを込めた詩を創って加えた。そして曲を二種類作って、
編曲担当のAさんにどっちがいいかな?と相談してアドバイスをいただき、
初めに創った曲のほうを選び、完成させて、伴奏をAさんに編曲していただき、それから約一年間、地元地域を中心にライブとコンサートを続けた。
その後創った「あい」も含めて、
毎回3曲を歌うコンサートの二曲目に歌っていた「故郷」。

2012年春より始めたコンサートはトータル計24回。約1年間続けた。
秋田への遠征コンサートの時は私は身体を壊して、参加できず、Aさん一人で行っていただいたこともあった。

2012年春、歌を創り始めた当時をふりかえれば、
発災から一年経っても、みな奮闘して頑張って無理をしていた。そして
泣くのを我慢している方が大勢いた。
みな、こう思っていた。
(私より大変な経験をした方々に比べたら、私はまだまだ大したことはない。大丈夫これぐらいなら乗り越えられる)
でも地域でコンサートをすると、みんな我慢して来た涙を溢れさせ、流して、うんうん、と歌に頷いていた。号泣し始める人もいた。みんなぜんぜん大丈夫ではなかった。
みんなもっと泣いた方がいい。いつもそんな思いでコンサートをし続けた。
涙を流すことによってわずかでも癒されるいろんなことを願って私たちはコンサート活動を続けた。

キーボードをAさんが弾き、20歳のKちゃんが歌い、私は前説とこのコンサートをやっている想いを、作詞作曲者として司会をしつつ語りつづけた。

ラストコンサートは,2013年4月19日 母校の創価大学学生ホールで開催した。当時の創大生メンバーに支援していただきながら、何とか無事開催できた。たくさんの全国で応援している方や創大生が来てくれた。
そう、あれからちょうど11年が経とうとしている。

終わった後、学生側からの取材とかの対応を突然申し込まれて、話しをしているうちに参加していただいた多くの方々とゆっくり話すことができないままに散会してしまったのが心残りであった。

チームの二人には先に帰っていただいた。
何しろ日帰りの弾劾遠征のコンサートだった。二人とも最終列車で石巻まで帰らねばならない。私は責任者として遅くなる覚悟をしていたのでホテルは予約していた。
そして現役生と交流会を八王子の駅近くで行う予定だったが、そもそも私の心と身体もくたくただった。コンサートをやり切ったことで力が入らなかった。
情けないことに、ふらついて、歩きながら交流会の会場へ行こうとしたが、話すこともできそうもない状況だったので、予定を変更して八王子の宿に直行することにして学生たちとは駅でお別れした。

宿に戻って、腰かけてからあらためて黙とうした。そして語り掛けた。
(みんな、今日でコンサートは終わりです。生き残った同志の方々に少しは寄り添えたと思います。みんなは早く、戻ってきてください。一緒にまた
広布の庭で闘いましょう。。。もう2年も経ったから、どこかで
産声上げてるかなぁ、、、、)

そんなことを想いながら、あらためて問いかけた。
(阿部支部長、これでよかったんだべか?少しは支部長の死闘に応えられる闘いになったんだべか?みんなの支えになれたんだべか?)

今女川町は、新しい町に生まれ変わって、震災前にも増して、活気ある街になっている。復光の町の象徴として、さらに発展していくだろう、間違いなく故阿部支部長の強き想いの礎のもとに。

そして私はいま、その思い出のラストコンサートをさせて頂いた
故郷に舞い戻って、新たな闘いを始めている。

何のために?

ただひたすら、40年以上前に創立者に誓ったお約束を果たすためである。
そして、創立者の偉大さを世界に宣揚するための闘いを続けていくためだ。
自分にしかできない桜梅桃李の使命を果たすためと自分に語り掛けつつ。

仮設住宅時代に、一時期は一日200mほどしか歩けない時も長く続いた。

しかし、今私は毎日、この故郷の街を、自在に闊歩しながら、闘い続ける心と身体を取り戻して、生きている。10km以上歩くこともある。

その闘いの決着点は、まずは目の前の闘いに負けないことだ。
その一歩一歩のその先に,
諦めない限り、誓願の実現は必ずある。 いや必ず実現する。

「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」御書p509  新版p612
            2023年04月22日 久遠の故郷にて


故郷(こきょう)  歌詞

1、北上川の 陽は落ちて 葦の茂れる 流れのほとり
 遊び笑いて 帰る道辺に 花摘みし日も 夢のかなたに

2、川開き 夜(よ)に たなばたゆれて
            街の灯りと 花火の響き
 あの思い出の 夜店の笑顔 夢遥かなり 星は輝く

3、つつじ野香る 日和山 眼下に望む 街の跡
 大海原の 猛しさよ なぜに荒(すさ)びて 夢を砕くか

4、野蒜 松原 潮風涼し 海辺に遊ぶ 幾年月よ
 松島東の 友よいずこに 君の両手の 温もり恋し

5、女川浜の 旭日をあびて 倒れしビルの 町を走りて
 皆を励まし 命かけたる 友の逝きしを 涙で聞きぬ

 冬の吹雪の 悲しみさえも 春来たりなば 花と変わらん
 空よ 海よ 涙を拭いて 明日の希望を ともに開こう
 君の 笑顔の 励まし偲ぶ 我も 今日より 幸の旅路と
 我も 今日より 幸の旅路と
                2012年 皐月 仮設住宅にて

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