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【還暦のメロス】④

父が生まれたのは、和暦では大正という時代だ。西暦で言えば1920年代である。
日本は江戸時代という武家社会を経て、やがてその終焉を告げた明治維新が起こり、明治時代が40年以上続く。日本はその時代の天皇が即位したときに和暦が変わる。つまり明治時代は、明治天皇が即位して、40数年続き、その崩御に伴って、新天皇が即位する。大正天皇である。大正天皇はもともと身体が弱く、わずか15年で崩御された。その大正11年に父は、宮城県桃生郡桃生町の大農家の三男として生まれた。そして名前は三郎。日本語で、郎は男性を表す漢字。だから3番目の男の子という意味で、名前は三郎。安易と言えなくもないが、わかりやすいということも言える名前だ。

名字は佐々木だった。桃生町エリアは、佐々木姓が多い。というか東北地方は佐々木姓がかなり多いと以前聴いたことがある。
そんなわけで、私の父 佐々木三郎は、宮城県の農村地帯の農家の三男として生を受けた。兄弟が7人いた。つまりすべて男の子の子供であった。
父の血筋は、女の子が生まれにくいのかもしれない。
しかしその子供の私達は6人兄弟姉妹である。つまり私を含めて男性が4人。女性が2人。男ばかりではないから、一概に女の子が生まれにくいという血筋ではなかったのだろう。こういうことは、なかなか「血筋」という概念ではとらえきれないと私は思っている。もっと別の要因、例えば運命、とか、天命とか、はたまた偶然の為せる業かもしれないし、何とも断定できない事なのかもしれない。

父は健康に育ち、尋常小学校、尋常高等小学校を卒業すると、すぐに「奉公」に出されたそうである。
「奉公」とは、どこかのお店持ちや、お金持ちの家に、働き手の1人として、出されることをいう。
今のひとはなじみのない話なのかもしれないが、私だって、「奉公」などというしきたりが昔の日本に在ったこともよく知らなかった。
子供がたくさん生まれた大家族が当たり前の時代の制度なのだろう。

父が「奉公」に行ったのが、石巻市の製麺問屋「かのまたや」であった。
主にうどんとそばを製造販売していたお店に、働き手の1人として奉公に行き、そこで20歳まで働いた後、第二次世界大戦がはじまって、やがて、佐々木三郎は、太平洋戦争を戦う日本軍の一員として、満州(今の中国の東北地方)に送られる。そしてそこで衛生兵として従事して、終戦まで日本軍の兵員として生きた。

太平洋戦争は、1945年8月15日に終結した。その期間に父がどのような兵隊として生きてきたのかは、もう調べるすべがない。父もその当時のことはあまり後年、話すことはなかった。



日本国は、太平洋戦争に敗れて、戦争は終わった。
日本軍は中国をはじめアジア各国の方々に残虐な行為をしたという歴史がある。この歴史は間違いない。そもそもほかの国に勝手に行って占領して、自分たちの好き勝手なことをすること自体、悪以外の何物でもない。
そんな行為は民衆に支持されることはない。
今プーチンが率いるロシアがやっていることと同じことをしていた、と言えばわかりやすいかもしれない。
愚かな国、神の国日本は闘う前から負ける運命にあった。
他国を侵略してその国がずっと栄えた歴史はない。
みんなやがて、民衆からの支持を失い、滅んでいく。
だから残念ながら、近い将来、一度ロシアという国は亡ぶでしょう。

当然、日本軍は武装解除されて、本国(日本国)に送還されるはずであった。
しかし武装解除された日本軍の兵隊の多くは、日本国とは別のソ連のシベリアに送られるのである。

戦争はいつの世も、民衆の悲惨な犠牲を生む。その民衆の1人であった私の父佐々木三郎は、シベリアへと抑留されるのである。



           

          

            ~~⑤に続く~~

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