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【三つの歌~追悼の歌水平線を越えて】       ①黒田 勇吾

2011年 12月 自宅に戻って自分はピアノに向かっていた。


半壊判定になった自宅をまだ手放す気にはなれなかった。

家のローンなどはない。ただ前々職の学習塾経営時に銀行から融資していただいた数百万円の借金があって、コツコツと返し始めていた。

2011年3月1日、東日本大震災投下前に入社した会社は諸事情があり、10月末で退職した。

11月から始めていたのは、家庭教師業だった。主に地元石巻市内の

仮設住宅で生活をしている中学生が対象。それも翌年には高校受験が

控えている中学三年生が3人。週に3回通って3月の受験目指して必死に

志望校合格を目指して奮闘している子供たちだった。もう一人指導を求めて

いる三年生もいた。その子は次週からの開始予定。

仮設住宅はかなりの数が石巻市で建っていた。

そこに住んで、家族のだれかを亡くしたりしている多感な中学生の応援に

いきながら自分が逆に日々励まされているような生活になっていた。

仮設に訪れる際に目にしたのは部屋の一室に小さな祭壇と誰かの写真が

飾られていること。あの頃は具体的に伺うことはまだできなかった。

やがてそれぞれの家庭の震災当時の話を伺えるようになれたのだったが。


そうして何軒かの仮設を定期的に回りながら、自宅に戻るといつも考えていた。この家族に寄り添う何かができないか、という漠たる想いだった。


私は高校時代、吹奏楽部にいてトランペットを吹いていた。

つまり毎日ほら吹きの浅春時代を送っていた。その頃はバイトで買った
アコギで流行り歌の弾き語りなどもしていたが、自分がオリジナルの曲を創るのは出来ない、と思っていた。いやその必要性を浅春時代は感じていなかったし自分が歌を創るなんて、考えもしていなかった。


2011年冬12月 ピアノの前に座りながら歌は出来ないものかと思いつつ
鍵盤を叩いていた。
たくさんの津波で行方不明中の方々の話を聞いていた。未だに帰ってくると信じて葬儀をしていない家庭もたくさんあった。

昼、時々、わたしは小さいころからの遊び場だった日和山に出かけて
丘の上から北上川河口から海が広がる景色を見ていた。この河口から
海へのそこかしこに、未だ見つかっていない誰かが眠っているのだろう。
そう思いながら、海を見ていた。

ピアノの前で歌を創れないかと悩んでいた時に、その海の風景が
目の前に広がった。
人差し指で手探りで音を拾っていた時に、ふと降りてきたフレーズが
あった。
そのフレーズには、メロディーがすでについていた。

♬ 。。。  水平線を    越えて。。。  ♬

そこから始まった歌作りは、翌年の1月末に2番までの歌になった。

譜面にメロディと歌詞を書き留めて、自分なりに何度も歌って
歌と曲を推敲して 出来上がった歌を、さてどうして編曲そのほかを
創り上げていこうかと悩んだ、自分は歌はとりあえずできたものの、
それを編曲して、どんな楽器で皆に聴いてもらえるだろうかと考えた。

        ~~②へ続く~~

                2023年11月4日  東京にて

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