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【いつか来る春のために】 第一章 2012年3月8日 三人の家族編 黒田勇吾

・・・・隆行、あなたは私に大切な思い出を三つ残していってくれたねぇ。

 こうして仮設住宅に嫁の加奈子さんと孫の光太郎と一緒にいると、しんどいくらいにあなたの思い出がじわじわと滲んでくるんだよ。隣の四畳半の部屋の仏壇には、お父さんとお母さんとあなたの三人の写真が飾ってある。毎日花に水をやってひっそりとお祈りしているときも、何故かあなただけの思い出が鮮明に溢れ出てきて、お父さんとお母さんのことは不思議なくらいぼんやりとしか思い出されないんだよ。

 そうだねぇ、隆行が小学一年の時だった。漁に出た夫の船が遭難してしまった時もあなたは涙ひとつ流さないでじっと耐えていた。耐えているのか、遭難の意味がまだよく理解していなかったのか、どちらか私もわかんなかったけどねぇ。お父さんの遺体が上がらずやがて捜索が打ち切られた時も、それでもお母さんがいればいいや、と笑っていたあなたを見て、私も泣くのを終わりにして夫の遭難を忘れよう忘れようと踏ん張ったものだなぁや。あなたが残していってくれた思い出の一つは、そう、あなたの笑顔だよ、隆行。

 あなたはとにかく小さなころから笑ってばっかしの子だった。

 私のどんな仕草にもすぐ反応して笑っていた赤ちゃんの頃。

 近所の公園に遊びに行けば必ず笑顔になって歓び、とにかく泣くということを知らなかった二、三歳の時分。

 小学生になって勉強がわからないと言っては笑い、わかったと言っては笑う息子を見て本当にこの子は大丈夫なんだべが、とよく夫と心配したもんだった。その夫が亡くなってからもいつも笑顔で接してくれたあなたに、私はどんなに励まされ心を癒されたことだったろうねぇ。

 隆行、あなたはとにかく笑顔が優しい子だった。それが私の生きる大きな力にもなっていたんだよ。その笑顔がもう見れなくなったのは本当に悲しいことだけど、私は欲張りは言わないべさ。小さいころから東日本大震災の日までそれこそ数えきれないくらいの笑顔を私に向けてくれたその優しさに、感謝してもしきれないくらい有難いと思っているよ、隆行・・・・

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「お母さん、いま光太郎におっぱいあげてるから、洗濯物取り込んでいただけますか」東隣の部屋から聞こえた加奈子の大きな声に、やっと物思いから我に戻った美知恵は加奈子に、ハイよ、と声をかけて玄関を出た。三月のはじめの牧野石市の街はこの季節になるとこうやって陽が出てるうちはもんやりと温かいものだ。美知恵は洗濯物を取り込みながら立ち並ぶ仮設の屋根の向こうの太陽を見て、思わず目を細めた。仮設の屋根に積もったおとといの雪は、昨日、今日の日差しですっかり融けて無くなっている。今日は風もない、やんわりとした空気の牧野石だった。おそらくあと一度か二度は雪の積もる日もあるだろうが、間違いなく春はもうすぐという空気のやわらかさだった。

 そして震災のあの日からもうすぐ一年。隆行とお父さんお母さんの一周忌がやってくる。それを思うとまた心が沈みそうになるのだったが、美知恵は洗濯物をカゴに取り込みながら気持ちを入れ替えようともう一度空を見上げた。珍しく空には雲はほとんどない。二日後の三月十日には一周忌法要を仮設集会所で執り行うことが決まっている。大方の準備はもう整っていた。あさっても晴れてくれればいいけどねぇ、と美知恵は青空を見上げながら思った。

洗濯かごを持って玄関に入ると、加奈子の部屋から子守唄が聴こえてきた。
 ~ねんえこやぁ~
 ~ねんねこやぁ~
そっと部屋を覗くと、長い髪をポニーテールにした加奈子が微笑みながら美知恵を見て、抱っこしている光太郎をゆび指した。光太郎の寝顔が見えた。美知恵はおもわず顔をほころばせながら、こくりと嫁に頷いてから静かに自分の部屋に戻った。そして六畳の居間の炬燵に足を入れて、洗濯物をひとつひとつたたみ始めながらまた隆行の思い出にひたった。

・・・隆行、あなたが残していった思い出のふたつめは、やはり光太郎だねぇ。私の初孫、そして隆行の忘れ形見。
 あなたと加奈子さんはあの日の一週間前に結婚式を挙げた。加奈子さんにはあなたとの子がすでに宿っていたことは、式を挙げる一か月ほど前に告白されていた。おめでた婚になったわけだけれど、思えばあなたは自分が亡くなることを分かって、私に自分の形見を残していったのかねぇ。(お母さん、実は子供が出来たんだ)と私に打ち明けた時のあの笑顔。私はびっくりして、それから思わず涙ぐんだ。
 夫が亡くなった後、私は保険の外交員の仕事を必死にやり通してあなたを育てた。その一人息子が一人前になって、素敵な人を見つけて、そして初孫が出来たと聞いて、何もかも嬉しくってねぇ。あぁ、この子もここまで育ってくれましたと、心の中で何ものかに感謝せずにはおれなかったものだよ。
 これでこれから私たち家族に幸せな毎日がめぐってくるって思って、安心するやら感慨深いやら、いろんな思いが湧き出たもんだなぁ。五十年余り生きてきて、あの時ほど幸せをかみしめたことはなかった。あまりにも幸せすぎて何か嫌な予感みたいなものまで湧き出てきて、心がざわざわした思いさえしたもんだった。まさかそれが現実になるなんて、誰も想像していなかったと思うよ、そうだよね、隆行・・・

 美知恵は洗濯物をたたみ終わると、少し横になることにした。やはり安定剤を飲んでいるせいか、午後のこの時間になると決まって眠気が来るので一時間ほど毎日昼寝をすることにしている。さっきもうとうとしたばかりだったがもう少し眠ろうと思った。ぐっすり眠れる時もあればうたた寝のようなはかない眠りの時もある。しかし近頃はなぜか心が安らいで、昼寝といいながら熟睡してしまうことが多い。おかげさまで夕方からは家事を疲れもせずにこなせているのでいいのだが。
 炬燵に体を入れながら手鏡を取り出した。美知恵の髪は短い。そして黒髪だ。もちろん染めているからだが、震災後のころに比べれば白髪もずいぶん少なくなってきたから染めやすくなった。顔の艶も良くなって化粧ののりもずいぶんよくなった。手鏡を見て右を向いたり、左を確認しながら、自分の顔を眺めるのが苦にならなくなった。加奈子さんからも、お母さん最近お肌つやつやできれいですねぇ、と言われるとお世辞でも嬉しい。二重瞼の下に一時期あったくまも今は目立たない。笑顔にした自分の顔をもう一度確認してから、手鏡を閉じた。そして枕を手繰り寄せて仰向けになった。窓から入る日差しもそんなに眩しくない。程よい明るさのなかで美知恵はやがてうとうとし始めた。

「こんちわぁ、みっちゃん、居だがなぁっす」男の人の大きな声で美知恵は、はっと起き上った。と同時に隣の部屋から光太郎の泣き声が聴こえはじめた。時計を見ると三時を回っていた。急いで髪を両手で揃えながら玄関に出ると、康夫おじさんが申し訳なさそうに立っていた。

 「いやぁ、わらし子、起こしてしまったみたいだなぁ、悪い、悪い」康夫おじさんがそう言いながら右手をつきだした。手には牡蠣のビニール詰を三つ持っていた。相変わらず無精ひげをたくわえた顔が笑っている。漁師だった当時の日焼けした赤ら顔から、今は少しぽっちゃりとしたおじいちゃんという柔らかい顔に変わった。髭をあまり剃らないのが、美知恵には不満だったが、それなりの考えがあるのだろう、と思っている。

「夢川漁協の知り合いから分げでもらったっちゃぁ。少しだけど牡蠣が採れだがらって、寄ごしてくれたんだぁ。みっちゃん、嫁さんと一緒に食べでけろ」
「あらら、おんちゃん、いつもすまねぃごったぁ」美知恵は礼を言いながら、奥の部屋をちらりと見た。光太郎の泣き声が少しずつ小さくなった。
 康夫おじさんは夢川町の浜の出身だった。その実家と兄弟たちはすべて津波にのまれた。おじさんは結婚していなかった。ともに独身だった兄弟たちの葬儀は、半年前にすべておじさんが取り仕切って行った。そして今度の集会所での一周忌法要を美知恵一家と一緒にすることになっているのだった。
美知恵と直接の血縁関係はないのだが、亡き夫とはもう三十年来の古い付き合いで夫が亡くなった後は特に、おじさん、おじさんと美知恵は頼りにしていた。

 康夫おじさんは、震災直後は随分と兄弟たちを捜したという。しかし遺品ひとつ見つからずにやがて諦めた後は、美知恵と同じ仮設住宅内に一人で住むことになった。
 なにもかも無ぐなったぁ、と仮設住宅に入ってきた当時は毎日のように言っていた。おじさんがそんな言葉をつぶやくのを聞くたびに美知恵は(私が居るでねが。私をおんちゃんの娘だど思って一緒に生きていくべし)と励ましたのだが、もう七十を過ぎた康夫おじさんは、うんだなぁ、と言うだけでどこか寂しげだった。
 美知恵は心配して康夫おじさんとの交流は欠かさないようにしていた。仮設でひとり住まいのおじさんがもう一度元気を取り戻してくれることを祈りながら、時折家でつくった煮物や漬物を持っておじさんのところに通っていた。そんな交流を続けていくうちに、近頃はおじさんも少し精気を取り戻したようにこちらの仮設の部屋まで訪ねてくるようになって、なんだかんだと他愛無い話をしながら暇をつぶしことも多くなった。そして少しずつおじさんは明るさを取り戻していった。

「おんちゃん、何もっできてくれたの?」そう言いながら加奈子が光太郎を抱っこして部屋から出てきた。光太郎はやはり目が醒めたようだ。加奈子の腕の中で、珍しいものを見るように康夫おじさんを見つめている。

「おお、光ちゃん、起こしてしまってごめんなぁす。おんちゃんは声だけがでかいのが取り柄なんだぁ」と言って笑いながら、
「なあに牡蠣だっちゃぁ。ようやっと夢川の浜にも希望が差し込んできたべぇ。夢川の俺の後輩が何やかやと頑張って、わずかばかりだけんども牡蠣が採れたんだってば。あそこでも牡蠣棚が津波にやられなかったところが少しあって、いくらか今年収穫出来たそうだ。それを分けてくれたんだ。美味えがら食べてみらいん」
「そすたら所も在ったのすか?よぐ採れだっちゃねぇ」と加奈子は驚いて牡蠣を見た。
「そうがぁ、有難いなぁ、奇跡の牡蠣だっちゃ」と美知恵も驚いて言ったあと、少し涙ぐんで目頭を押さえた。
「みっちゃん、海は俺だぢのごど、完全に見捨てた訳じゃないんだなぁって思った」そう言ったおじさんも少し涙ぐんでいた。おじさんの言葉に頷きながら加奈子が
「そしたら今日、牡蠣鍋にしましょう、ねぇお母さん。おんちゃんも夕方になったらもう一回来てけさいん」と言って美知恵を見た。
「加奈子さん、そうすっぺ。いろいろ語りながら牡蠣鍋で温まっぺし。酒もあるから」と美知恵は頷いた。
「そうが。それは嬉しいごって。ありがたいなゃ」康夫おじさんは涙目をちょっとこすった後、夕方また来ることを約束して帰っていった。
 加奈子に抱かれた光太郎は機嫌がよくなったのか、にこにこ笑いながら美知恵に手を伸ばしてきた。
「光ちゃん、なにぃ、おばあちゃんに抱っこしてほしいのかぁ」と美知恵は笑いながら光太郎のほっぺたを指で軽くポンと押した。光太郎はそれが面白かったのか、あはっと笑った。

 夕方、美知恵は夕食の鍋の食材を買いにコンビニに行った。ここの仮設は近くに大きなスーパーがない。まとめ買いをするときは蛇川地区の大手スーパーに車で行くのだがそれは週に一度と決めている。今日は予定になかった鍋料理になったので、いくつか足りない食材だけをコンビニに買いに来たのだ。白菜二分の一切れ。えのき一束。絹ごし豆腐二丁。それからしらたきを一袋。あとは日用品を買い足してレジに並んだ。夕食前になるとこのコンビニはとても混雑する。みな同じようにその日の夕食の買い物に来ているのだ。会計を済ませて入口を出ると、駐車場の隅で赤いバンダナをした男がタバコを吸っていた。バンダナの鈴ちゃん、だった。苗字が鈴木なので鈴ちゃん。美知恵が近寄って声をかけると、鈴ちゃんは片手をあげて笑った。四十歳になったかならないくらい。美知恵は鈴ちゃんの年齢を聞いたことがなかった。

鈴ちゃんは仮設集会所で、ボランティアの学習塾を中学生の為に開いている。去年の冬から始めていて、月謝はもらっていないそうだ。鈴ちゃん自身も仮設住宅に男一人で住んでいて、美知恵は集会所でちょくちょく会うようになって仲良くなった。とにかく元気で笑顔が素敵な好男子。子供達からも慕われている。震災前は渡山に住んでたが、津波で自宅が大規模半壊、避難所に半年間住んだあと仮設に入ったということだ。家族のことはあまり話そうとしない。美知恵もそうだが皆それぞれの家族のことはあえて話したり聞いたりしない。皆まだそっとしておいてほしいことがあるのだ。
「これから授業始まるんですか」と美知恵が先に声をかけた。鈴ちゃんはタバコを灰皿に捨てて、
「今日は一時間遅めの5時から授業だよ。子供たちが部活ある日だから。中三は昨日受験だったから今日はなしです。みっちゃん、買い物かい」と問いかけてきた。
「んっだ、ちょっと足りないものがあってねぇ」そう応えながら美知恵はふと思いついて鈴ちゃんに尋ねてみた。
「鈴ちゃん、今日、塾何時に終わるの」
「ええと、八時半。今日は期末試験もとっくに終わって総復習だけだからわりと早いべさ。テスト前は夜十時過ぎまでやってたんだよ」
「んだがぁ、そしたら鈴ちゃん、塾終わったら我が家さ寄らねすか?」
鈴ちゃんは、えっという顔をして
「何、今日なんかあんの」と尋ねてきた。
 美知恵はなんだか急に鈴ちゃんに鍋料理を振る舞いたいと思いついたのだった。
「鈴ちゃん、康夫おじさん、知ってっちゃ。今日うちの夕食に来るんだっちゃ。鈴ちゃんも一緒に牡蠣鍋とお酒でもと思って」
「あぁ、康夫さんか、時々集会所で世間話してる仲だべさ。そうかぁ、牡蠣鍋かぁ、なんだかずいぶん昔に食べた記憶しかないなぁ。でも遅くなるけど大丈夫なのすか?」
「平気、平気。康夫おじさんと一緒に盛り上がっぺす」
鈴ちゃんはなんだか急ににこにこして、
「そしたら塾終わったら寄せでもらうから。みっちゃん、ごちそうさんです。牡蠣鍋ひさしぶりぃ」と言ってバンダナを締め直した。
「鈴ちゃん、んだら、待ってっからね」美知恵はそう言って仮設のほうへ歩き始めた。
「みっちゃん、センキュウ」鈴ちゃんが美知恵の後ろ姿に向かって大きな声でそう叫んだ。美知恵は振り返って、腕を九十度にまげて、がんばろう、の合図をして笑った。心の中でも、頑張ろうね鈴ちゃんと呼びかけながら。

康夫おじさんは夕方6時過ぎにやってきた。美知恵は出来上がった牡蠣鍋を炬燵のテーブルに置いておじさんと酒を飲み始めた。おつまみもいくつか用意してゆったりとした気分で久しぶりにお客さんを迎えての楽しい夕餉になった。加奈子も座って光太郎を抱っこしながら食事に加わった。
 牡蠣鍋を愉しみながらいろいろな話をした。それは他愛ない話であったり少し深刻な話であったりした。康夫おじさんは、楽しそうに笑ったり、時には考え込んだりした。でも話をすることによって癒される心もあると美知恵はその様子を見ながら思った。美知恵はおじさんの話をできるだけ相槌を打って聞くように心掛けながら、自分もお酒をおちょこで少しずつ飲んだ。おじさんは酒が強い。コップで飲んでいたが、最近はあまり飲めなくなったなぁと言って赤い顔で笑っている。
「おじさん、適量の酒は体にいいからねぇ。酒にのまれなくなったというのはいいことだっちゃ」と美知恵はおじさんを持ち上げた。
うん、とおじさんは頷きながら、
「でもなぁ、酒を飲んでも忘れられることと、忘れられないことがあるっさ。それは仕方ないべさ。忘れられないことは心にぎっしりと刺さった傷だからなぁ」と言って黙った。加奈子はそんなおじさんの言葉に何も言えず、
「おんちゃん、光太郎眠くなったみたいだからちょっと寝かせてくるね」と断って隣の部屋に行った。美知恵はおじさんの様子を見ながら静かに言った。
「おんちゃん、笑いだい時はとことん笑って、そして泣きたいときは思いっきり泣いだほうがいいんだよ。我慢することないがら。おんちゃんは山のような悲しみを背負ってしまったんだもの、仕方ないべさ」
 美知恵の言葉に深く頷きながら康夫おじさんは感慨深そうにつぶやいた。
「みっちゃん、確かにそうだ。俺ぁ、まだまだ泣き足りないんだべなぁ。時々日和ヶ山にのぼって海を眺めているときに、いつも思うんだ。この太平洋の水と同じだけの涙を流したらこの悲しみも癒えんでねえがなって。そんくらい思いっきり泣いてみたいなぁって思う。二人の弟たちの分も代わりに泣いであげて弟たちの悔しさが晴れだら、まだ俺ぁも前に進むことができるんでねぇがなぁって。そしたらあとは残り少ない人生だども、夢川の浜の若い衆が牡蠣やホタテの養殖、そして漁がちゃんとできるようになって、また元の暮らしが軌道に乗るのを見届けたいと思う。そしたらそれが俺ぁの所願満足になんだべなぁ」静かな口調で話すおじさんの顔は酒で赤ら顔だったが、平穏なほほえみを見せて幸せそうだった。
 美知恵は何度も頷きながらおじさんをじっと見つめた。そうしておじさんが所願満足になる将来の夢川の浜の姿を思い浮かべてみた。しかしそれはまだ儚い未来の幻のようにしか思えなくてやがてやりきれない悔し涙が不意に頬を伝って流れたが、おじさんにはその顔を見せないように台所に立った。

 康夫おじさんは八時過ぎに帰っていった。これから鈴ちゃんが来るからゆっくりしていってと引き留めたのだが、いやぁ、今日はもう出来上がっちまったぁ、と赤ら顔で笑って、ごちそうさんと言って帰っていってしまった。美知恵はそれでもおじさんが満足そうに悪酔いもせずに牡蠣鍋を愉しんでいったことにほっとした。昔、酒を飲んで悪態をよくついていた面影はもうなかった。
 九時ごろには来る予定の鈴ちゃんの分の鍋の準備を終えると、美知恵は酔い醒ましにちょっと外へ出てみることにした。そして誰もいない駐車場の真ん中に立って空を見上げた。三月の夜はまだ冬の冷たさが残っていて寒かった。いくつか星が見えたので明日も雪にならずに晴れてくれるといいな、とぼんやりと思った。美知恵はあの日以来雪が嫌いになった。雪が降ると、震災の日の夕方に降り始めた吹雪のような冷たい情景と、そして何もできなかった自分の無力さと悲しみが思い出されるのだった。
 暖かい春が待ち遠しかった。
 するとそこに人影が近づいてきた。鈴ちゃんだった。
「みっちゃん、こんばんは。星を見て、たそがれでいだのがな」鈴ちゃんはそう言って笑った。
「あら鈴ちゃん、塾早く終わったのすか。今酔い醒ましに外に出てたんでがす」とちょっと恥ずかしそうに言って笑った。
 一緒に仮設に戻って鈴ちゃんを中に入れて玄関を閉めると、あれ、康夫さんもう帰ったのすか、と鈴ちゃんが尋ねながら居間に入った。美知恵はその背中に向かって、
「引き留めたんだけど帰っちゃいました。おんちゃん、ずいぶん酒弱くなったようで結構酔っぱらったみたいだったの」と返答しながら台所から牡蠣鍋を持ってきた。炬燵台の真ん中に鍋の湯気が上がった。
「まず鈴ちゃん、今日はゆっくりしていってください。お仕事お疲れ様でした」と美知恵は座って頭を下げた。
「三人ほど子供たちが風邪で休んで、今日は7人だけで授業だったのさ。それに皆が部活で疲れているようだったので、三十分早く切り上げました。風邪ひきが多くて、まだ冬も終わってないなと思いましたよ」と言って赤いバンダナをぎゅっと結び直してから頭を下げた。
「季節の変わり目だから風邪もひきますよねぇ」と加奈子も話を受けながらお料理をテーブルに並べ始めた。
「鈴ちゃん、熱燗でいいかしら」と美知恵は立ち上がって聞いた。
「みっちゃん、すまないねぇ。はい、それでお願いします。そのかわりおちょこでね。私は酒そんなに強くないから、軽めにいただきます」とすまなさそうに笑った。

「へえ、そうなの。なんか強そうに見えるけどねぇ」美知恵はそう言って台所に立った。
「加奈子さん、光太郎はベッドに寝たのね。そしたらあなたも今日は少しお酒飲みましょう」と美知恵が誘った。「あとは今日はミルクにして、母乳は終わりにしましょう。たまにはあなたも気分転換しないとね」
「お母さん、ありがとうね。じゃあ、一杯だけおつきあい」と言って加奈子も炬燵に座った。
「子供が生まれると、お酒もしばらく飲めないから加奈子さん、たいへんだね。うちの妻が昔そうだったなぁ」と言って鈴ちゃんは黙った。何かを思い出してるような遠くを見るような表情になった。
 美知恵はそんな鈴ちゃんの表情を見ながら、
「まずは一杯。少し熱めだから気を付けて」と言って徳利から鈴ちゃんのおちょこに酒をそっと注いだ。美知恵は加奈子にも注いであげてみんなで乾杯をした。鈴ちゃんはおちょこを頭の上まであげると、いただきます、と言ってゆっくりと酒を口に入れた。そしてにっこりと笑って、甘口最高、と目を細めた。酒が気に入ったらしかった。酒は地酒で、以前賞もとったことがある。美知恵は鈴ちゃんに牡蠣鍋を勧めながら、
「しかし鈴ちゃんも偉いね。月謝もいただかないで中学生たちに一生懸命教えてるんだもんねぇ。なかなかできない事だべさ」と褒めたたえた。鈴ちゃんは左手を振って、
「いやいや、月謝を払わないというのは厳密に言ってちょっと違いますよ。もちろん子供たちからは一銭もいただいてないけど、あの塾をサポートしているNPO法人から指導料として支援金の一部から毎月頂いてますよ、もちろん大きな額ではないけど。でもそれは大変ありがたいことです。それに自分でもネット関係で仕事をしていてそちらの収入も多少あるので、何とか生活できてるって感じかな。全国の支援者の皆さんがさまざまな物資を送っていただいてますのでそれにもほんとうに感謝ですよね。でも何より子供たちと一緒に勉強できることが何より心安らぐんですよね」鈴ちゃんは牡蠣鍋の牡蠣や白菜を小皿に盛りながら微笑んだ。
「鈴ちゃんは震災前から塾をやってたって聞いたんですけど」加奈子が訊いた。鈴ちゃんはその質問にあいまいに頷きながら何を話そうか、どうしようか迷っている表情を見せた。
 美知恵は鈴ちゃんに日頃の疲れを癒してもらおうとそれだけを思って今日は康夫おじさんと一緒に鍋に誘ったのだが、おじさんが先に帰ってしまったのでどんな話をしていいか少々戸惑っていた。しかし意を決したように美知恵は訊いてみた。
「確か前に聞いたことあるけど鈴ちゃんは渡山に自宅があったんだよね。ご自宅で塾をやってたんですか」
「そう。自宅の一階が教室で二階が住まいだった。なんか随分前のようだけどまだ一年経っていないんだよなぁ」と言ってからまた黙り込んだ。そしてまた牡蠣鍋を黙々と食べ始めた。美知恵はその表情を見てやっぱり震災の頃の話を尋ねるべきではなかったと後悔した。
「鈴ちゃんごめんね。なんか話したくないことを聞いたりして。そうだ、今日の子供たちの様子を聞かせてよ。男の子と女の子とどっちが多いの」美知恵は話題を変えようとしながら鈴ちゃんにお酌をした。鈴ちゃんは、どうもありがとう、と呟いてからグッとおちょこをあおった。そしてバンダナを締め直して、にこっと笑った。

「みっちゃん、ぼくは震災のことはほとんど人に話したことがないんだ。まだ心の整理がついてない部分もあったし、家族のことを話すと、なんというか自分の心がじりじりして痛くなる。自分を責めてしまうんだ、あの時どうして家族を助けてやれなかったのかなぁって。その思いが自分を責め立ててまともに話せなくなった時期があったんです。でも変な言い方だけど、牡蠣鍋とお酒に心がほどけたというか、みっちゃんたちの優しさに甘えられるかなぁ、と今思ってる。今は心の整理もある程度ついたので話せるかなぁって」そう言って鈴ちゃんは震災の時の状況を静かに話はじめた。

             【鈴ちゃんの話】


 僕の家族は妻と一人娘の優衣の三人でした。渡山の住宅地に家があって、私は個人経営の学習塾をしていました。生徒は中学生が32人。そんなに大きな規模ではないけれど何とか家族が生活していける程度はほどほどに頑張っていました。私は子供が好きだからこれが天職だと思って一生懸命自分なりに仕事していましたが、家のローンがまだ残っていたので妻はパートで水産加工場に働きに行ってました。今思えばもっと経営をしっかりしてもう少し生徒数を増やして塾が成長して収益が増えていたらばって、今でも後悔しています。そうすれば妻も働かないで、あの日は家で一緒に居れたんじゃないかって思います。
 あの地震はとても微妙な時間帯に起きました。金曜日の午後二時四十六分。家族がバラバラでいた時間。私は自宅の一階でその日の授業のプリントを作っていて、妻はパート先で三時までの勤務。中学二年の娘の優衣はその日は学校に行ったけど、風邪をひいていて卒業式の準備の途中で早退したんです。午後二時過ぎに学校を出たらしいというのは後でわかりましたけど。
 話を戻すとその日の朝、優衣が咳をしているのを見て僕は娘に言いました。学校休んだらって。妻も一緒に休みなさいと止めたんですが、どうしても今日は卒業式の予行練習があるからやっぱり行くと言って家を出ました。でも優衣が無理に学校に行ったのにはもう一つ理由があったんです。それは私たち夫婦の為に学校帰りにケーキを買うという目的です。つまり三月十一日は私たち夫婦の結婚記念日。優衣は前の年も私たちの為にケーキ屋さんでケーキを買ってきてくれたんです。優しい心の娘でした。その娘心になぜあの日気付いてやれなかったんだろうと今でも時折悔しくてやるせないです。私は馬鹿な父親だった。自分たちの結婚記念日さえ忘れていたんだから。

あの地震は本当に長いものでした。大揺れが来てから一階の資料棚からすべての教材が落ち、暖房と蛍光灯がすぐに切れました。教室に教材、プリントが散乱し机と椅子が倒れ、それらががさがさと揺れ続けました。さらに二度目の大きな揺れで天井の蛍光灯が次々に落ちて割れ、私は玄関まで壁伝いにふらふら歩いて何とか外に出ることができました。道に出るとご近所の家から人が外に出ていて何かにつかまりながら、上を見上げていました。電柱が倒れそうな勢いでぐらぐらと揺れていました。
 長い長い揺れがやっとおさまってあたりの人がざわめき始めましたが、私はというとようやく静まったという安心感のほうが強かったんです。近所の何人かの知人に声をかけて無事なのを確認すると、私はあらためて家に入りました。家が壊れないで大丈夫だったことを一通り確かめるとめちゃくちゃにフロアに散らばった資料の上に落ちていた携帯を拾ってまず妻に連絡しました。妻は出ませんでした。たぶんいつものように会社の自分のロッカーに荷物と一緒に入れていて出れなかったといまは想像するしかありません。その次に優衣の携帯にかけてみましたが優衣も出ませんでした。仕方がないので二人にショートメールで伝言しました。(大丈夫か、怪我はないか、連絡よこせ)
 停電になっていたのでテレビがつきません。私はラジオを持っていなかったので、さてどうしようかと時計を見ると三時を回っていました。そこでこの地震では今日の塾はできないなと考えて、今日来る予定の子供たちにメールで塾は休みにしますと一人一人に連絡し始めました。そのことに夢中になって、外で警報が鳴り始めていたのに気にしないでいたんです。また警報かと思いながら。
 僕はおろかでした。そして後で思い知りました。あの、生徒にメールを送っていた十分から二十分くらいの時間がいかに重要な時間だったかを。妻や娘の生死の境を分ける重要な、そして二度と取り戻すことのできない大切な命の時間だったかを。
 メールを送り終わったとき、教室に突然男の人が飛び込んできました。家から二軒先の懇意にしている町内会長のKさんでした。
「鈴ちゃん、まだいたのが!奥さんと娘さんはどうしたんだ。大津波警報発令されたの知らないのが!速く逃げっぺし。みんな内陸の風山のほうに向かっているよ」
 そのKさんの必死の大声に私は驚きました。
「え、おとといも警報あったけど大したことなかったっちゃぁ」
「鈴ちゃん、バカ言ってんでねえ。ただの警報でねえど。3メートル以上の津波が来るってラジオで言ってる。今近所のみんなに避難の呼びかけ終わったところだ。俺ぁ、あど行くがらな」と叫んでKさんは急いでまた出ていきました。
 僕の心の危機意識は、このKさんの呼びかけで目を覚ましました。もしこのときKさんが声をかけてくれなかったら、ぼくはあの時どうなっていたかわかりません。

すぐに逃げる準備を始めました。バックと携帯を持って教室に鍵をかけ、家の前に置いた車に乗り込みエンジンをかけました。そして急いで妻と優衣に再度連絡を取ろうと携帯を見たら、妻から既に一通のメールが届いていました。
(パパ、いま鹿町のヤスタカ書店に向かっている。そこで優衣と待ち合わせしちゃっているの。パパは一人で逃げて)
 そのメールの内容ははじめ意味が判りませんでした。優衣は学校にいるんじゃないのか。学校だったら安全だろう、三階建ての校舎なんだから。しかし妻と優衣が学校とは反対方面の書店で待ち合わせているという。わけがわからないまま、書店に向かおうと車を発進させました。と同時にラジオを点けました。七メートルを超える津波が来るというアナウンスが耳にはいりました。それは本当だろうかと半信半疑のまま鹿町方面へ向かう大通りに出ようとしたら、車がすでに渋滞していました。急いでバックして、住宅街の細い道を猛スピードで走りました。一方通行も無視。右に曲がり、左に曲がり、何台もの車とぶつかりそうになりました。ふと気が付くと雪が舞い始めていました。
 その時です。小さな交差点で海側の左の道路を見ると、道の向こうに車が何台も黒い水のような壁に押し流されてこちらに向かってくる景色が見えました。その上を茶色い煙が渦巻いていました。私は思わず道を右折して内陸方面へ向けてアクセルをふかしました。夢中でした。とにかく海と反対の方角へとだけ考えました。しかし次の行き止まりのT字路を左折したとき、車の左側の住宅地から既に黒い水が道にあふれ始めていました。そして前方の道から川の流れのような勢いの黒い水がいろいろなものと一緒にこちらに流れてくるのが見えたのです。さらにその向こうから何台もの車が流されて回転しながら近づいてきました。とっさに車を降り鞄を持ち、携帯をズボンに押し込んで右側の住宅の壁に這い登り、家の横の倉庫の屋根に飛び移ってそこからその家の屋根に上がりました。足元で今までに聞いたことがない異様な音が唸っていました。屋根の上の二階の物干し台にまたがりながら、道路を見下ろすと、そこはすでに住宅街の道は見えず、様々なものが浮かんだ茶黒い水の激流の川のようになっていました。

僕はどこの方の家かわからない二階の物干し台にへたり込みながら、道を流れていく津波を呆然と見下ろしていました。こんなところまでこれほどの津波が押し寄せてくるのをだれが想像したでしょう。さらに津波は家の敷地にもどんどん流れ込み、この家の一階部分まで急激に水位を増しながら不気味な音を響かせて渦巻いていきました。雪は本降りになって吹雪のように空に舞っていました。
 ふと我に返ってジャンパーの下のベルトに挟んでおいたバックから携帯を取り出し、妻と優衣に何度も電話してみましたが、応答はありません。無力感に打ちひしがれて家の周りの惨状を見まわしました。時折人の叫び声がどこからか聞こえましたが為す術もありません。吹雪の舞う中で私はその物干し台に座り込んで寒さに震えながら翌日の朝までただうなだれてじっとしていたのです。のどの渇きや空腹感よりも寒さがきつかったです。二階の部屋の窓を開けて中に入ろうとしましたが鍵がかかっていました。いっそのこと窓を蹴り破って中に入ろうとも思ったのですが、さすがにそれはできませんでした。じっとしてひたすら津波が引いていくのを待つしかありませんでした。
雪はやがて止みました。
 あの長い長い永遠に続くような夜は一生忘れないでしょう。夜空に星がたくさん煌めいているのを見ました。あたりの家々の屋根には白くうっすらと積もった雪が奇妙に光り輝いていました。夜中にふと遠くを見ると、南流川の下流のあたりでしょうか、その方面だけが赤々と夕日が燃えるように光がぼうっと揺らめいているのが見えました。おそらくあのあたりが燃えているのはわかりましたが、なぜ燃えているのかわかりません。それはいつまでも沈まない夕焼けの輝きのように儚く揺らめいて西の空をいつまでも赤く染めていました。。。。。
         ーーーーーーーーーーーーーーーー
 美知恵は鈴ちゃんの話を涙をすすりながら聞いていた。加奈子も涙顔だった。美知恵は思った。みんなあのときは尋常でない経験をしている。ありえない状況の中で紙一重の差で命を長らえたのだ。その話をする鈴ちゃんの心を思った。何とかねぎらいの言葉を掛けたかった。しかし悲しみの思いが強くて美知恵はただ頷いて聞くしかなかった。鈴ちゃんはあらためて正座をしてさらに話を続けた。
         ーーーーーーーーーーーーーーーーー

次の日の夕方でした、妻と優衣が見つかったのは。夜明けとともに僕は二階から降りてヤスタカ書店を目指して歩き始めました。水かさはまだ腰ぐらいのところもあったし、がれきや車やいろんなものが道に重なっていてひどく歩きにくかったです。お腹もすいていたし喉もカラカラだった。途中で水に浮いていたペットボトル入りの炭酸があってそれで喉の渇きは癒えました。
 僕はとにかく妻が運転していたであろう車をひたすら探しながら歩きました。水かさがまだ高いところは迂回しながらさ迷い歩いたんです。ヤスタカ書店にももちろん行きましたがそれらしい車はありませんでした。同じように何かを探している人は結構いました。誰かの名前を呼びながら歩いている女の人もいて、その声が妙に今でも思い出されます。ある人からは菓子パンをひとついただきました。その人は、そこらへんに浮いているものはどっかの店から流れてきたものだからまだ食べられるぞ、と教えてくれました。そのアドバイスはとても助かりました。僕は車にお金の入った財布を置き忘れていたし、そもそも何かを売っているお店などすでに全くなかったのです。妻と優衣に遭ったら食べさせようと浮いていた菓子パンを二つポケットに入れました。
 夕方になり、もう疲れ果ててどこかに腰掛けるところはないかと思って、歩いていた道の横の壊れている家の広い庭に入った時でした。そこに二台の車が斜めに重なっていてその一台の車に見覚えがありました。急いで駆け寄ってナンバーを見るとまさに妻の車でした。僕は必死になって車のドアを開けようとしましたが全然開きません。車体はところどころ大きくへこんで傷つき、窓ガラスは割れかけて白く濁って中が見えません。庭に在った大き目の石を持ってきて渾身の力で窓を叩きました。何度か繰り返してついに窓を壊し、そしてなかを見ると妻と優衣が抱き合うように重なって運転席と助手席をまたぐようにして横たわっていました。私は大きな声で妻と優衣の名前を叫び続けながらドアを思いっきり引っ張って開けました。黒い水がざっと流れ出ました。妻の額に急いで手のひらを当てると、冷たい氷を触ったように、そう、本当に氷のように冷たかったです。妻の胸に耳を当てて心音を探りましたが何も聴こえません。優衣の額も同じように冷たく濡れていました。優衣の心音も聴こえませんでした。私は二人の体を交互にさすりながら名前を呼び続けてずっと泣き叫んでいたと思います、、、そんな状態でどれほどの時間が過ぎたのか今も思い出せません。記憶が飛んでるんですね。ただ覚えているのは、妻も優衣も本当に眠っているような、微笑んでいるような優しい顔でした。今にも目を覚まして、どうしたの、と言いそうな安らかな寝顔のようでした。それから二人をさすり続けた僕の手が、とてもとても温かく感じたあの感触が今でも忘れられません。自衛隊の方がたが来るまで私はそこでずっと泣き続けていました。
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後でわかりましたが、優衣のバッグの中にはおそらく私へのプレゼントのCDと母へのプレゼントのブレスレットが入っていました。あの日の夜、地震が来なかったらサプライズで私たちに贈ろうと思ってたんでしょうね。
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 堪え切れなくなったのか、加奈子が嗚咽を押さえながら立ち上がって隣の部屋に行ってしまった。静かにその姿を見ながら話し終えた鈴ちゃんは、
「みっちゃん、お水一杯くれないかな」と美知恵に頼んだ。美知恵は目に当てていたハンカチをポケットに入れて立ち上がり、コップ一杯の水をそっと鈴ちゃんの前に置いた。鈴ちゃんはそれをゆっくりと飲み干してから美知恵に言った。
「僕にとって救いだったのは、妻も優衣も優しい死に顔だったことかな。何と言ったらいいのかな、この世でやるべきことをすべて終えた方のように満足そうな笑顔をたたえて横たわっていたというか、静かな表情だった。もちろん今振り返ってみるとということなんだけど・・。あれから半年くらいは、後悔の念だけしかなくて自分を責め続けたけど、よく考えてみると優衣も妻も幸せに生きたんじゃないかって思えてきて、そして安らかな死に顔を思い出すごとに僕たち家族は幸せな人生を生きてきたんだよなぁ、と思えるようになったんです」そう言って鈴ちゃんは笑顔で美知恵を見た。
 美知恵は鈴ちゃんの話を聞いてまだ涙が止まらなかった。しかしその言葉を聞いてゆっくりと涙を拭いてちょっと考えながら応えた。
「鈴ちゃん、そう思えるってことはいいことだよねぇ。奥さんも娘さんも幸せな人生だったと感じれるってことは、鈴ちゃんも幸せな家族生活を送れたってことだもの」美知恵はゆっくりと言葉を選んだ。
「みっちゃん、そうなんだ。何より僕は幸せだったと思えるようになった。二人と素敵な人生を歩めたなぁって。あれから一年が経とうとするけどようやくそう感じれるようになった」鈴ちゃんは思い出を振り返るような顔をして微笑んでいた。そこに加奈子が戻ってきて、ひざをついて座り、ごめんなさい、と鈴ちゃんに頭を下げた。
「加奈子さん、なんも。僕こそ泣かせるような話をしちゃって悪かったね」鈴ちゃんは笑って加奈子の肩をポンとたたいた。
「加奈子さんもみっちゃんも同じような悲しみを背負ってきたからなぁ。まあ次にご招待いただく時には、もっと別の面白い話をするから。こちらこそごめんなさい」
「いえ、鈴さんがそんな経験をしてたなんて知らなかったので、ついこらえきれなくなって。いつも赤いバンダナ巻いて、さっそうと歩いている姿しか知らないから、なんかあらためて偉いなぁと思いました。いろいろ頑張ってきたんだなぁって思って悲しくなっちゃいました」加奈子はもう一度鈴ちゃんに頭を下げた。
「あぁ、これかぁ」鈴ちゃんはバンダナを外すと両手で持って見つめた。そして静かにほどき始めた。

「これはさ、こうやって開くとわかるけどネッカチーフなんです。ほら、うちの娘の制服についてる赤いネッカチーフ」そう言って鈴ちゃんは二人を交互に見た。美知恵は、はっと気づいた。
「それって優衣ちゃんの中学の制服についている赤いリボンの。。。」
「みっちゃん、そうそう、あの子の制服のネッカチーフ。優衣はあの日制服姿だったんです。二年生は赤色。学年によって色分けしていました。もちろん優衣の制服はそのまま形見として部屋に飾ってます。これは知り合いの衣料品店でネッカチーフだけ全く同じものを取り寄せてもらったものです。首にかけるのはおかしいのでこうして頭に巻いてるんですよ。優衣といつまでも一緒にいるよという思いですかね。それとこれは妻がかけていた腕時計」鈴ちゃんは胸ポケットから女性用の赤いバンドの腕時計を出して、テーブルに置いた。美知恵も加奈子も深く頷いて時計とネッカチーフを見つめた。
「そうだなぁ、七回忌まではバンダナは外さないでしょうね。この時計も自分の胸にしまっています。僕は妻と優衣と今でもいつも一緒です。大切な、大切なかけがえのない思い出ですね」鈴ちゃんは微笑みながら時計を胸ポケットにしまい、バンダナを締め直した。その笑顔は強がりではない心からの笑顔だった。
 美知恵は感謝の思いを込めて鈴ちゃんに礼を言った。
「鈴ちゃん、今日はありがとう。話しづらいことまで話させちゃったみたいだけど。でもなんというか、勇気をもらえた。今日の話を聞いて生きる勇気っていうのかな、そんな大切なパワーをいただきました。ありがとうね」
ありがとうございました、と加奈子も同じように鈴ちゃんに礼を言った。
「いやいや、お礼を言わなければならないのは僕のほうだっちゃ。こんなにおいしい牡蠣鍋とお酒をごちそうになってありがとうございました。遅くまでごめんなさい。でも話を聞いてくれてありがとうね。とても心がほぐれました。それでは今日はこれで失礼します。じゃぁ、あさってまた集会所で会いましょう」
「え、鈴ちゃん、一周忌法要来てくれるの?」
「もちろん参列させていただきますよ。それと午後二時からの復興イベントにも僕出ますから観に来てください」鈴ちゃんは正座して頭を下げた。美知恵はえっといった顔をして加奈子と目を合わせた。加奈子もわからないという表情で美知恵を見た。鈴ちゃんはその様子を見て笑いながら言った。
「みっちゃん達知らなかったんだ。集会所は午前中法要で、午後は二時から四時まで復興支援イベントです。それに僕が出演しますよ。三曲歌わせていただく予定です」と言ってギターを弾く身振りをした。加奈子が驚いて言った。
「鈴さん、歌われるんですか。知らなかったです。イベントがあるのは私は知っていましたが、鈴さんが出るとは思いませんでした。だって歌を歌われるということも分かりませんでしたし」加奈子は美知恵を見て同意を求めた。

「鈴ちゃん、集会所のポスターよく見てませんでした。午前中の法要で頭がいっぱいで気が付かなかったぁ。ごめんね」美知恵が謝った。そうだったのか、といった顔をして鈴ちゃんは笑った。
「ごめん、もっと宣伝してればよかったなぁ。僕、歌で復興支援の活動してるんです。ここの集会所で歌うのは初めてだけど、牧野石でもう三か所でやってました。僕の創った歌を歌うから、時間大丈夫だったらぜひ来てくださいね。皆で二時四十六分に黙とうした後に僕が出演する予定です」美知恵も加奈子もしばし驚きの表情だった。そんなサプライズなイベントの話をした後、鈴ちゃんは帰っていった。夜の十一時に近かった。美知恵と加奈子はそのあとお茶を一杯飲みながら康夫おじさんや鈴ちゃんのことを少し話しあった。しばらく話した後、話が尽きないからそろそろ寝ようか、と美知恵が言って後片付けを始めた。結局二人が床に入ったのは十二時を回っていた。寝しなに加奈子が美知恵の部屋に来て言った。
「お母さん、それじゃ明日はお留守番宜しくお願いします。九時ごろには出てお昼過ぎには帰ってきますから」
「加奈子さん、ゆっくりいってらっしゃい。街中は風も穏やかだろうし明日も晴れるようだからのんびり光太郎と買い物でもしてきたら。それじゃあおやすみなさい」美知恵は布団に入りながらそう言った。加奈子もおやすみなさい、と言って自分の部屋に入った。
 美知恵は布団に入って天井を見ながら鈴ちゃんのことを思った。愛する家族を失うということは、生きる希望を失うことだ。悲しみを通り越してそれは絶望へと人を追いやる。そこから立ち直るということは容易なことではない。美知恵は自分も経験しているからそれは痛いほどよくわかった。私も半年ほどは絶望の淵をうろうろしていた。でも私には嫁の加奈子さんと半年後に生まれた光太郎がいた。だから何とか悲しみを押しやって希望の道を進み始めることができた。それが無かったらどうなっていただろう。鈴ちゃんが可哀そうだな。独りぼっちになったんだからどんなにか苦しいことだろう。
 美知恵は鈴ちゃんの帰りしなの笑顔が眩しく見えたことを思った。どれほどの激烈な悲しみがその裏にあるのだろうか。そう思うとまた涙が出てくる。本当に私は涙もろくなったなあ。そうして泣いているうちにやがて自分の息子の思い出が心に浮かんできた。鈴ちゃんの笑顔と、隆行の笑顔がぼんやりと心のなかで重なった。

・・・隆行、あなたが残していった三つ目の思い出は、向日葵なんだよ。あなたが一番好きだった花、向日葵。もう津波で無くなってしまったけど北山町の自宅のお庭には、隆行専用の直径三メートルほどの丸い庭園があった。あなたを溺愛したおじいさんが整備していろんな花を植えられるようにしてくれた。しかしあなたはそこに毎年向日葵だけを育てていた。もっといろんな花を植えたら、という私の意見を笑ってやりすごし、ひたすら向日葵だけを育て続けていた。友達の和男君も向日葵が好きだから、という理由だった。
 そうだ、あなたが小学校四年の夏が忘れられないねぇ。もう五メートル四方に広がっていた庭園に三十本ほどの向日葵が咲いていたかなぁ。向日葵の中で虫取りをしていたあなたが突然泣き出した。その声を聞いてあわてて庭に下りてあなたを見たら、倒れて泣いている。どうしたんだい、とあなたの顔を見ると左指をつきだして、痛い、痛いと泣くだけで理由を言わない。それであなたの肩に掛けられた虫かごの中を見ると、なんと蜂ばかりが何匹も入っていた。とっさに理解した私があなたの人差し指を見ると、蜂の針が刺さっていた。急いでそれを抜き、病院に連れて行って処置していただいた。おそらくあしなが蜂でしょう、と医者に言われてほっとしたけど、それからうちに帰る車の中で私は笑って運転してた。なぜってあなたが久しぶりに泣くのを見て、なんか可笑しかったんだよねぇ。それに蜂を採っていたあなたが可笑しくってねぇ。本当に不思議な子だったよ、あなたは、隆行。
 そんな痛い思いをしたのも忘れて毎年あなたは向日葵だけを育てていた。やがて向日葵の種が段ボールいっぱいまでになった六年生の秋、あなたは何げなく言った。
 お母さん、来年の春はこの種を小学校の校庭中に全部植えるからね。真顔で私を見るあなたに正直言って呆れたもんだ。なんでそんなことをしたいと思ったんだい、と聞いた時のあなたの返答を聞いて、私は思わず泣いちゃったねぇ。
「夏に交通事故で亡くなった同級生の和男君が、空の上からでも向日葵が見えるようにいっぱい咲かせたいんだ。和男君、おらのうちの向日葵すきだったからだべさ」
 隆行、あなたの思い出はお母さんの心に溢れるほどいっぱいあるよ。二十五年間の思い出は、もちろんいいことばかりではなかったけれど、どれもかけがえのないものだねぇ。それだけでもお母さんは幸せに生きてこれたんだと、この頃はしみじみと感じるんだよ。

幸せってどこか遠くにあるもんではないんだねぇ。歓びも怒りも悲しみも楽しみも、思い出という濾過をこして振り返ると、すべて幸せに変わっていくように最近お母さんは思えるようになったよ。なぜそう思えるようになったかは、お母さんよくわからないけど、震災という出来事でお母さんの心の何かが変わった気がする。確かにあなたと両親を失ったことは周りから見れば不幸の極みだろうけれど、この1年を経て何かが変わったんだろうねぇ。

 美知恵は何か不思議な思いで布団の中で隆行のことを心にめぐらせた。あぁ、少し酔ったのかもしれないねぇ、と思い直した。もう寝ないとと気持ちを切り替えて寝返りをうった。しかし酒のせいなのか、頭が冴えわたってなかなか眠れないまま夜は更けていった。

       第二章に続く
     https://note.com/relive/n/n69742419e9d0/edit








           

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