見出し画像

言葉に生きなくなった、とはいえ

「言葉に生きなくなった」と先日書いたが、それを読んでくれた妻から、「ちょっと寂しいものを感じる」と感想を言われた。
言葉の一つひとつにこだわって文章を書くことは、それはそれで素敵なことだし、時にはそういう文章を書きたいことだって僕にもあるし(手紙を誰かに書くときとかね)、誰かが「間違った」日本語を使っているときは、気になることもある。
でも、言葉尻だけとらえて、本質的な中身、文章の奥にある気持ちや思いというものまで否定してしまうような姿勢がある「言葉警察」の人には、クエスチョンを示したい、といったレベルの立場になったよ、というくらいで受け止めてもらいたい。

今日は、最近、言葉尻が気になって仕方ない人たちがそれを発信しているのを僕が見て気になったこと(まどろっこしい)をいくつか例として挙げたい。


「おざなり」と「なおざり」

これら、どちらも正しい形容動詞だけれど、違いが分かるだろうか。
どっちも、いい加減な対応って意味の形容動詞だけれど、「おざなり」は「いい加減な対応をする」の意味、「なおざり」は「何も対応しない態度がいい加減だ」の意味だ。
音も似ていて、意味も似ているなら、そりゃあごっちゃにもなるってもの。

たまに読むと、へー、なるほどー、と面白い、NHK放送文化研究所のホームページにこんな内容が載っていた。

まず、それぞれの語源について見てみましょう。
「おざなり」は、「御座(敷)の形<なり>」を縮めたものです。このことばは19世紀初めには使われ始めていますが、宴会の席(御座敷)などで表面的に形ばかりを取り繕った言動のことを指したものと推測されます。
いっぽう「なおざり」はもう少し歴史の古いことばで、10世紀には使用例が見られます。このことばの語源にはいくつか説があるのですが、その1つに「なほ(直・猶)+さり(去)」というものがあります。「なほ」は「そのまま何もせずにいること」、「去り」は「遠ざける」という意味がありますから、ここから想像すると「なおざり」は「何もしないで距離を置いておく(放っておく)」というのが出発点だった、と言えるかもしれません。
次に、現代語での話として考えてみましょう。
教育を[おざなり/なおざり]にする。
「おざなり」の場合は、いい加減ではあってもひとまず教育をする、という意味になります。いっぽう「なおざり」の場合は、教育らしきことはほとんど何もしない、という意味になります。
また、文の形を少し変えるとどうなるでしょうか。
[○おざなり/×なおざり]な教育をする。
この文の場合、前者は「いい加減な教育を施す」ということで問題はありませんが、後者は「何もしないという教育を施す」ということになってしまい、意味が通りません。
このような日本語の区別は、どうか「おざなり」にも、「なおざり」にもしないでくださいね。
(メディア研究部・放送用語 塩田雄大)

NHK放送文化研究所ホームページ

ああ、解説文の、洗練された日本語。読みやすいし、例示が適切だし、分かりやすい。

その意味の違いや、それが「ごっちゃになっている」事実を研究することって、とても興味深いし面白いし、学問としてとても大切なことだと思う。
それは置いておいて、この文章を書いた塩田さんという方は、きっと、「おざなり」「なおざり」がごちゃ混ぜになって使っている人がいたとしても、自分の仕事に関わらないなら、取り立てて指摘したり講釈を垂れたりする人ではないだろうなあ、という印象がある。

洗練された文章から伝わってくる人柄の良さや、気品の高さが、僕はとても好きだ。 

なぜこの話をここでしているかというと、「おざなり」「なおざり」の誤用をしている人たちを見下すような文章を、インターネットのどこかで目にしたからである。
別に誤用していたからといって、誤用した人にも、それをツッコんだお前さんにも、何も影響はないだろう?と妙に腹立たしく思ったのが印象に残っている。
誤用を見て、なりふり構わず指摘せずにいられない、その姿勢、生き方こそ、僕は「指摘」したくなる。天邪鬼なのは百も承知だけれど。

言葉なんて、生き物って言われるくらいで、誤用がそのまま新たな言葉として定着することもあるくらいで、「おざなり」「なおざり」問題なんてなおざりにしておけばいい。
そんなことより他に考えることないの、暇なの?って思うようになった、「言葉に生きなくなった」僕です。

接尾語「次第」は使い方次第

これまたインターネットの海で見かけた、ムダと思われるツッコミから。

皆さんは、次の文のうち、どちらが辞書的に正しいと思うだろうか。
声に出して読んでみてから、判断していただきたい。

  • (A)到着し次第、連絡いたします。

  • (B)到着次第、連絡いたします。

実は、正解は(A)なのだ。
この用法の場合、「次第」は接尾語だが、動詞の連用形が接続するという特徴がある。
「終わり次第、ご連絡いたします。」という別の例だと、よく分かっていただけると思う。
「終わる」というラ行五段活用動詞に付いて、連用形「終わり」に「次第」がくっつく。
同じように、「到着する」というサ行変格活用動詞なら、連用形「到着し」に「次第」をくっつければいいだけなのだ。

「でも(B)だってあまり違和感ないよ~」っておっしゃる方もいると思う。
実は僕個人としては、(B)には違和感があるのだけれど、もちろんわざわざ指摘するような野暮なことはしない。だって通じるし。

(B)は、「し」の音が2回連続するから、特に話し言葉で言いづらさが発生してしまう。話しているときに、気が付いたら「し」を1回省略してしまうようなこともあるかもしれない。それを文字に落としたときに「し」を抜いてしまうのだとしたら、自然な流れではなかろうか、と思うのだ。

この問題をもっと厄介にしているのは、接尾語「次第」は、「○○した直後に」の意味を持つ場合と、「△△のなるがままにする」という別の意味を為す接尾語である場合がある、ということだ。

  • 正しい言葉を指摘するかどうかはあなた次第だよ。

この場合、「次第」は、名詞「あなた」についている。もっと言えば、同じ意味の「手当たり次第」という言葉もあって、こちらの意味の「次第」は名詞だけでなく動詞にも接続するのだ。

ここまで読んで、眠くなった方もいると思う。
それでいいと思う。マジでどうでもいい。
言葉の違和感の抱き方は人それぞれあって、言葉は日々変容しつつあって、一応は「これが正しい」とされる文法のルールが存在していて、もうそれでいいじゃん、って思っている。

何度も言うが、文字通り「言葉尻」をとらえては誰かを馬鹿にするような人の態度こそ、馬鹿にされるべきだと思う。

そうはいっても僕自身がよく気になってる言葉

これまで書いてきた主張と真逆のことを書くかもしれない。いや書く。

「させていただく」は、非常に気持ち悪い(迫真)(個人の感想)。

ニュース記事で、自称マナー講師とやらが「仕事を休みます」でなく、「仕事を休ませていただきます」が適切、などと宣っていた。けしからん。

曰く、「休みます」だったら、主体が休む本人になってしまうからよくないらしい。いや、休む主体なのは上司ではなく自分だろうよ。ナニイッテンダ。

ストレートかつフラットに、目上の人相手に「休みます」が言いにくいのはよく分かる。でも、休むことは労働者の権利であって、必要以上にヘコヘコする必要はないんじゃないだろうか。

「休ませていただく」を分解すると、

  • 「休ま(マ行五段活用動詞「休む」の未然形」

  • 「せ(使役助動詞「せる」の連用形)」

  • 「て(接続助詞)」

  • 「いただく(カ行五段活用動詞「いただく」の終止形であり謙譲語)」

となる。
ここで「せ」が問題となる。休むのは自分なのに「使役」?
労働者を、上司が「休ませる」という状態を、労働者である私が「いただく」ということ?

いやいや、気持ち悪いって。
何より、必要以上のヘコヘコ感が出るのが気に食わない。

最近、テレビでも仕事でも、プライベートだって、「読ませていただく」「食べさせていただく」「プレゼントを渡させていただく」といった「させていただく」をよく耳にするようになった。
相手を大事にして、慮って、波風を立てないようにする日本人の文化が生んだ、最先端の日本語における謙譲語とも考えれば納得がいく気もするが、何かいけ好かないのだ。

日本人、へりくだりすぎだと思う。
もっと、フラットに考えていいと思う。
「スタジオに届いた手紙をお読みします」で充分だ。「読ませていただか」なくていい。「食べさせていただか」ずに、素直に「いただきます」と手を合わせよう。プレゼントするのはこちらなのだから、「あげる」か、せめて純粋な謙譲語として「お渡しする」くらいでいいんじゃないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?