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2005年4月25日、尼崎~JR福知山線脱線事故と私

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その日の朝はゆっくり始動した。午前9時を過ぎて、そろそろ出勤しようかと思ったころ、当時ガラケーだった携帯に、時事通信のニュース速報のメールが飛んできた。「踏切で事故。2人死亡」といった内容だった。「ああ、午前中は忙しそうだな」と思った。

その頃なぜか鉄道事故の取材で呼び出されることが多く、2週間ほど前にも、大規模な停電で関西圏のJRが止まり、午前中いっぱい取材に追われたのを思い出していた。夜は以前から楽しみにしていた、他社の記者たちとの飲み会の約束があった。それまでの事件取材の勘からして、この規模なら夕刊締め切りで一段落。さすがに飲み会まで引っ張られることはないだろう、と楽観していた。

その見通しは、甘かった。

(同僚が現場で撮った写真。私はこの場にいなかった)

午前10時を過ぎたころから、とてつもないことが起きていることが分かってきた。「特に用事のない人は、全員会社に来てください」。一斉メールが入ってきた。会社に着くと、社会部の机がある周辺は騒然となっていた。前日からの泊まり勤務者を含めた十数人が血相を変えて電話をかけていた。私の役割は現場に行くことだと分かっていたので、遊軍キャップに割り振りを確認し、ほんの数分で大阪の本社を後にした。

最初に命じられたのは、負傷者が搬送されている川西市内の病院だった。ほかのいくつかの病院は、重い負傷者が次々と運び込まれて廊下にあふれ、さながら野戦病院の様相を呈していたが、私が取材に訪れた病院は軽症の負傷者が2人しか搬送されていなかった。しかも1人は自力で帰ったらしく、普段の病院とまったく同じ光景だった。キャップに報告したら「尼崎の体育館に回れ」と指示が出た。

そこからが、私と事故との長い年月の始まりだった。

兵庫県尼崎市にある「尼崎市記念公園総合体育館」に私が着いたのは昼過ぎ。スポーツをする人たちが行き交う、極めて平穏な光景だった。この時点でも、まだ自分は状況を把握できていなかった。ほどなく体育館は閉鎖され、私は館内から追い出され、外から中の様子は伺い知れなくなった。

そこは、次から次へと遺体が運び込まれ、音信不通の家族や友人を探す人々が、情報を聞きつけて集まってくる場所になった。さらにメディアも押し寄せて、一帯は騒然となった。

体育館の入り口がピロティーになっていて、記者やカメラクルーはそこに待機していた。体育館はガラス張りの建物だが、紙が貼られたので中の様子は見えなかった。時折、中から人の泣き声や叫び声、怒鳴り声が聞こえてくる。

日が暮れるにつれて、訪れる人の数も、報道関係者の数も増えた。入口前で待機しているメディアも100人近くはいただろうか。その横を、家族と連絡が取れない、もしかしたら事故列車に乗っていたかもしれないという人たちが、青ざめた顔で出入りする。

(当時の国土交通大臣は地元選出で、当日に訪れていたようだ。私は記憶にない)

暗闇の中、体育館から泣きながら人が出てくると「ガチャン」という金属音とともにテレビのカメラクルーの照明が点いて、その人を照らしてカメラが追いかけ、さらにその後を記者がぞろぞろと追い回す。誰もが殺気立っていた。取材に応じてくれる人がいるわけがない。

やっている方からしても、ぞっとする光景だ。居合わせた記者のうち数人が「こんな取材をしていたらまずいよね、なんとか対策を考えないと」と口々に話をしていた。しかし、その場で誰かが「被害者取材は自制しましょう」と仕切るわけでもない。延々とこの光景は繰り返された。

被害者取材など大して経験のない当時の私は「何のためにこんなことしているんだろう」と他人事のように疑問に思いながら、ガチャン!という音がしてライトが点くたびに、当事者を追いかけ回すメディアの列の最後尾に、金魚の糞のようにくっついて右往左往していた。

体育館がある公園の敷地からはJRの線路が間近に見える。同僚と公園の縁石に腰掛けて線路を眺めると、駅でもない線路上に止まったまま動かない列車が見えた。あり得ない光景を前に、何だかとんでもないことが起きていることを実感した。福知山線はこの日から約2カ月にわたって動かなかった。

「メディアスクラム」と批判される、集団化したメディアの過熱取材は、その後も何度か体験した。特にこんな、話を聞くこと自体が非常に難しい現場では、何とか一言でも取材できないかと、その場にいる記者たちは焦る。他社が全て聞けている話を自社だけ落とすと、あとで上司や先輩から叱責される。そんな「横並び意識」は強烈に働く。
逆に「赤信号みんなで渡れば怖くない」ではないが、怒られたり批判されたりするような取材行為も、集団になれば何となく後ろめたさが薄れる。少なくとも取材を断られるまではしないと、上司に報告できない。その場にいたほとんどの記者たちは、そんな後ろ向きな気持ちで向き合っていたのではないだろうか。
取材者の数が増えてくると、中には不届き者も出てきて、ゴミを路上に捨てたり市有地に上がり込んだりする者も出てくる。当時はSNSもGREEやミクシィといったものしかなく、ネットで炎上するという言葉もなかった時代。事件の被害者や弁護士が警察に苦情を訴え、メディアの責任者が集まって対応を協議するといったことはあったが、すべてその場をしのぐための場当たり的なもので、根本的な対策は未だになされていないように思う。
メディアと言えば大手メディアしかなかった時代。メディアの信頼を失墜させないために、自浄作用で何らかの対策を打ち出さないといけない、と、社内でも何度も訴えたが、2019年の今、大手メディアの置かれた状況を考えると、どうやらもう、手遅れかもしれない。

この現場で唯一、取材らしい取材をしたと言えるのは、現場に南谷昌二郎・JR西日本会長が訪れたとき。そこを訪れるほとんどの人が、着の身着のままで出入りする中で、バリッと黒いスーツに身を包んだお付きの部下たちを大名行列のように何人も従え、沈着に、しかしピリピリした雰囲気を漂わせながらやってきた会長の、型どおりのコメントをノートに書き取っていった。

午前2時を回っても、現場の高ぶった雰囲気は収まっていなかった。朝刊の最終版の締め切りはとうに過ぎ、気づけば翌朝4時ごろ、本社から現場にいた何人かの記者たちに、「近くに宿を取ったから、今夜はそこで一時間ずつ交代で仮眠して」と連絡が来た。

飲み会はおろか、店にキャンセルの電話すら出来なかった。現場には一緒に飲み会をする予定だった他社の記者も来ていて「今日は無理ですね。また日を改めましょう」と言われたのだが、再度の飲み会も、行くはずだった店を訪ねることも、結局なかった。

つづく

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