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2005年4月26日~一夜明けて遺体安置所

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JR福知山線脱線事故の発生初日、遺体安置所となった尼崎市の体育館に貼り付けられた私。午前2時を回った頃「交代で1時間ずつ仮眠してまた現場」という指令が届いた。

一時間仮眠して、また体育館に戻った。夜が明けて周囲は明るくなり、メディアの数も10分の1ぐらいに減っていたからだろうか、雰囲気も少し落ち着いていた。体育館から出てきた人に恐る恐る話を聞いてみると、「親族の行方が分かりません。とにかく心配です。早く助けだして欲しい」といった話をしてくれる人が少しずつ現れた。

そのうち、中年の男性から「大学に入ったばかりの姪が見つからない。姪と仲良しの同級生も同じ電車に乗っていたけど、まだ見つかっていない」という話を聞いた。記事になりそうな話だと思い、社で待機しているキャップに報告したところ、「現場を離れていいから、その話を取材しろ」と言われた。つまり、いきなり被害者取材班に組み込まれたのだ。

ちょっと驚き、不安になった。自分は遺体安置所になっている体育館から、記事のパーツとなる情報を定期的に報告していればよいと思っており、積極的に被害者の家を訪ねて取材する、主体的な役割を担うとはまったく想像していなかったのだ。

過去のトラウマもあった。初任地の佐賀県にいた2000年、西鉄バスジャック事件で、殺害された女性の遺族や負傷者に話を聞いたことはあった。遺族は誠実な方でじっくり話を聞かせてくれたが、乗客への取材はほぼ全滅だった。苦しい経験を持つ人と向き合う辛さ、そこで無神経な言葉を言ってしまわないかという恐怖で、早い話、腰が引けていた。今回は規模の面で桁違いだ。果たして自分に務まるんだろうか。

スイッチが入ったのは、何げない上司の一言だった。

手がかりを求めて、地元の神戸総局を訪ねた。大阪で数カ月前まで上司だった人がデスクをしていた。事情を説明すると、ニヤニヤしながら言った。「お前に遺族取材ができるのか」。さすがにカチンと来た。やってやろうじゃないかと思った。

ただ、2人の大学生はどこにいるのか、見つからないまま何日か過ぎた。2人の名前は分かっていても、住所は大まかにしか分からない。当時はツイッターもFacebookもまだなかったから、神戸総局や阪神支局、さらに三田支局まで行ってもがくようにゼンリンの住宅地図を探し回ったが、まったく絞り込めなかった。

つづく

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