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平成の終わりに~福知山線脱線事故から14年


2019年4月24~25日

4月24日の夜、仕事を終え、軽く食事して、東京駅から夜行バスに飛び乗った。

翌朝。今年の関西は、灰色の空だった。
4月25日を尼崎で過ごすようになって14年。
雲一つなく晴れ渡った日も、正反対に大雨だった日も、強く印象に残っているのだけど、どちらでもない日の印象はなぜか希薄だ。

漫画喫茶でシャワーしてコーヒーを飲んだ後、JRに乗って尼崎へ。
どことなく殺風景だったJR尼崎駅構内はセブンイレブンができたり、関西名物マネケンの店ができたりしていた。しかしコインロッカーがないので、仕事の荷物を仕方なく持っていくことにする。

北口を出て、再開発で整然とした駅前をくぐり抜けると、沖縄総菜店や焼き肉店、お寺が並ぶ、古い雑然とした町並みになる。工場、工場、また工場の中を歩き続けて、15分から20分でたどりつく。

2005年4月25日午前9時16分、JR福知山線がカーブを曲がり損ねて脱線し、沿線のマンションに衝突した現場。

JR西日本が住民から買い取って、長らく廃墟になっていたマンション「エフュージョン尼崎」は昨年「祈りの杜」という慰霊施設に整備された。関係者から話こそ聞いていたが、実際に来て見ると、まるで宇宙船が着陸したような空間が出現していた。

ここにたどり着くと、9階建てマンションの最上階を見上げ、雲一つない青空に、今年も4月25日が巡ってきたということを再確認するのが自分の中での習わしだったが、あるはずのマンション最上階がなく、見えるのはただ空だけ。何だか肩すかしを食ったようだ。

(これは事故から10年後の2015年4月25日に撮影した現場付近の空)

例年、慰霊式は、現場から離れたホールで開かれていた。別に「事故発生時刻は現場を訪れたいから」と、慰霊式に出席せずにこの時間にこの場所にやってくる遺族・負傷者が多数いた。今年から慰霊式はこの「祈りの杜」で開かれ、そうした人々の姿とすれ違う機会は激減した。

逆に「慰霊施設整備後、初の慰霊式」という文句に釣られてか、メディアの数は例年より多かった。例年、マンション1階のエントランス前が待機場所だったが、慰霊施設となった今は壁の向こう側になっている。道路を挟んだ施設の向かいにテントが張られ、ロープの内側にテレビのカメラが並んでいた。何だか、縁日のヒヨコみたいだ。

すれ違う記者もみんな若返って、知らない人ばかりになったなあと思いながら踏切へ向かって歩いていると「取材しに来たんですか?」と知り合いから声をかけられた。入れ替わらない人は、確実にいるもんだ。

午前9時18分、踏切

午前9時18分ごろ、あの日とほぼ同じ時刻に、同志社前行き快速電車が現場付近の踏切を通過する。速度を目いっぱい下げて、警笛を鳴らしながら。窓を見ると車内でも祈っている人がいる。

踏切は解除されず、そのまま後続の特急「こうのとり」が現場を通過する。14年前は特急「北近畿」だった列車。北近畿の運転士が異常に気づいて防護無線を発信したため、事故現場に列車が突っ込む三河島事故のような二重事故は避けられた。

午前10時、線路の上

列車内からはどう見えるんだろう。またJR尼崎駅へ戻り、伊丹駅で折り返して、1両目の先頭車両に乗った。

塚口駅を通過し、阪神高速をまたぐと、左側に白い幕が張られた場所が見えてくる。そこに出現した巨大なガラスの壁は、やはり、宇宙船が不時着したかのような唐突感だった。

ふと、2005年6月19日、事故から1カ月半後のことを思い出した。JR福知山線が運転を再開した最初の列車。妻を亡くした男性が先頭車両で、事故現場を見つめていた。私はその後ろから男性に目をこらしていた。

「嫁さんを殺したマンションを更地にしてほしい」と事前に私に語っていた男性は、「どうやって、嫁さんはあの世へ突っ込んで行ったのか見届けたい」と、運行再開第1便の先頭車両に乗って、尼崎駅で降りて行った。

(2005年6月19日に撮影した写真。運転台で帽子をかぶっているのは運転士ではなく、当時の垣内剛・JR西日本社長)

午後1時、一般献花

午後0時すぎ、再びJR尼崎駅に降り立つと、知り合いの負傷者や支援者たちと顔を合わせた。通学中に1両目で事故に遭遇した大学生2人も、いまは30代半ば。14年、外との葛藤、内面の葛藤、いろいろありながら、今は社会生活を送っている。

そんな2人から「たいっちゃーん」と、幼少の頃に親戚で呼ばれていた名前で呼ばれてやや恥ずかしくなった。

「あの現場も、ものすごく変わっちゃいましたよ」
「本当ですねー」

4月25日、当事者と多くを語ることはない。私自身、事故とその関係者を長いこと見続けてきたとはいえ、事故を直接体験したわけではなく、当事者の言語で語ることはできない。ただ4月25日の事故発生時刻にこの場に集い、時間と空間を共有する。月日の経過とともに感情は和らいではくるが、そんな静かな一日でありたいという気持ちは、事故翌年からずっと、暗黙の了解なんだと思う。

何度となく通った事故現場。私がそこへ通う拠点にしていた駅前のモスバーガーで食事をして、午後1時からの一般参賀に向かった。駅からは黒いネクタイ姿で大勢の人が歩いているが、中高年の男性が目立つ。おそらくJRの労働組合の組合員だろう。事故当時は仕事盛りの年齢だったはずだ。時間の経過を肌で感じる。

内部はさすがに撮影できる雰囲気ではなかったが、芝生や木が植えられ、慰霊式もできる建物が造られ、噴水や慰霊塔のようなものもできていた。街の一角にある墓地が、真新しい霊園に整備されたような唐突感。

遺族や負傷者はどう思うんだろう。私自身、いろんな人の意見を聞いて「100%現状維持」から「更地にして跡形もなく」まで、正反対の意見があることを知っていた。全てを満たすのは不可能だ。

私自身は唐突感に戸惑いつつ「なかったことにする」という判断が結果的に下されなかったことに安堵した。当事者の思いが180度異なる中で、廃墟となったマンションを永遠に維持するのも不可能だ。慰霊施設という形での保存・継承は、一つの姿勢ではあると思う。

慰霊施設の中核をなす、減築されたマンション付近は相変わらず当時の痕跡をとどめている。地面には脱線した車両が乗り上げた「脱線痕」や、救出作業のための重機作業の後が至る所に残る。マンションの壁は外壁がはがれ、さびた鉄筋がむき出しになっている部分もある。

1両目がのめり込んだマンション立体駐車場の地下部分に、現場を知る人にはおなじみ、お地蔵さんが立っている。お線香を上げようと並んでいると、施設内に号泣が響きわたった。遺族・負傷者だけが立ち入れるマンション脇まで来て花を供え、外壁に残る傷痕をなでて、また泣いていた。

ここで命を絶たれた大学生がたくさんいた。高校生もいた。ママもパパも独身の人もいた。生きていれば母親となり、父親となり、社会の一員となって活躍していただろう。事故の後、自分も人生に絶望して死のうと思ったこともあったけど、心ならずも命を絶たれた100人以上の人々にせめて何か報いるには、何があっても生きる希望を失わないことではないか。14年にして初めて、そんな思いを新たにした。実際にはこの14年、必死で生き抜くうちに、いつの間にか人生の折り返し点も過ぎていたのだけど。

私はなぜ、ここに来ているんだろう

花を供えながら、自分はなぜここに毎年のように来ているのだろうと思いを巡らせた。

(2015年4月25日に撮影した写真)

6年半の関西勤務の間、結果的に毎年4月25日は必ずここにいて仕事をしていた。関西を離れてからも、毎年ではないが、マンション前で立っているか、同時刻の電車に乗っている。

昨年、一昨年と仕事が忙しくてこられなかった。事故から14年という、区切りとしては中途半端な2019年に来ようと思ったのは、仕事が忙しくなかったこともそうだが、「平成最後」という世間で踊るキーワードに吸い寄せられたことも大きい。

この14年、関わりのあった遺族や負傷者が、転職したり、転居したり、いきなり海外留学したりしていく姿を多く見てきた。先日のNHKのドキュメンタリーを見て、それが「事故に区切りをつけようとしている」作業なのだと分かった。

私自身の人生も大きく変えたこの事故に、何かの形で区切りはつくだろうか。いや、区切りなどつかない、つけたくないのではないか。正直なところ、まったく自分でも分からない。

でも「平成の終わり」という、いい機会だから振り返ってみよう。自分にとっての平成だったこの大きな鉄道事故のことを。

つづく

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