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有史以前~2005年4月24日までのこと

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2005年4月24日まで

平成が、もうすぐ終わる。ほぼ30年という切りのいい年数に、何らかの意味を与えようという試みが、世の中で数多くなされている。

時代区分としての解釈は結局、後付けでしかない。だが、平成のほぼ真ん中で起きた大事故、そして平成の幕開けとほぼ同時に生まれたシステムについて、いろんな場面に立ち会ってきた。

平成が始まる2年前の1987年4月1日に発足した「JR」という巨大国策鉄道会社。そして、平成17年の4月25日に関西で、107人を死亡させた脱線事故のこと。

多くの人の人生を変えた大事故だった。メディアの人間として発生当初からかなり長い期間関わった自分も、被害者やその関係者として巻き込まれた人たちも、まるで時間が止まったような日々だった。あれからずいぶん長い時間が経ち、いつの間にか、遠くの場所にいる人たちも多い。まだ時間が止まったまま、一歩を踏み出せない人も多くいると思われる。

それでも毎年、あの日を思い出す。そして考える。

あれは一体、なぜ起きたのか。そして後世に、何を残したのだろうかと。

そんな感じで漫然と書き始めて「しまった」と思った。話は書いても書いても終わる見通しが立たず、しかも本題の「平成とJRというシステム」にたどり着く見通しも立たない。どうやら平成のうちには終わりそうもない。でも鉄道記者だったのだから、ひとまず見切り発車してみよう。

     ◇

当時、私は31歳。大阪社会部という部署に配属されて半年ほどたっていた。入社して9年目だったが、内勤生活もあったので、現場記者歴としては実質、4~5年目といったところだった。

見知らぬ大阪は、生まれ育った関東とは気風も文化もかなり違っていて、知らないことが多く戸惑った。「市内班・南回り」という、南署や東署など、ミナミの繁華街を管轄する警察署の担当を命じられたが、どちらかと言うと繁華街は落ち着いているのに、近畿一円では悲惨な事件や事故が多く、深夜だろうが未明だろうが、電話一本でたたき起こされ、火事や殺人事件の現場取材に駆り出される日々だった。

その前の年は年末から年明けにかけて、奈良県で起きた誘拐殺人事件の取材のため、奈良に1カ月以上泊まり込んでいた。帰任後は警察や司法などの担当が特にない「遊軍」というグループに配属された。

遊軍の中では若い方だ。「一番機」と呼ばれ、市内班担当とやることはほぼ一緒。何か事件や事故などが起きたら、現場に駆けつけて、関係者を割り出して片っ端から話を聞いていく役割だった。体力勝負だが、とにかく成果を出したくて、言われるままにあちこちかけずり回っていた。

2005年4月25日、雲一つない青空だった。この空から、多くの人の人生を変えた恐ろしい運命が降ってくるなんて、思いもしなかった。

つづく

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