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2005年の大型連休、知らないところで自分が標的に~JR福知山線脱線事故と私

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最初の10日間、つまりゴールデンウィークの連休中は、次から次に発表される遺族の人となりを聞く取材や、犠牲者の写真を集めるのが主な仕事だった。今と違ってSNSもない時代、顔写真は基本的に遺族の了解を得てお借りしていたが、突然の訃報に驚愕し、葬儀の準備などに殺気立っている中で、快く写真を貸してくれる遺族は極めて稀な存在と言ってよかった。

知人、友人を探し出して「写真をお貸しして頂けませんか」と頼み込み、「●●さんと■■さんは▲▲高校の同級生」と聞けば、学校や関係者を片っ端から回って関係を確認し、卒業アルバムを借りた。

写真集めは、これも取材力を競うメディア間の競争のようなもので、新聞各紙の朝刊、夕刊をチェックしては「うちが入手できてない●●さんの『ガンクビ』がよそに載ってないか」と戦々恐々とする日々だった。他社はオフィスに棒グラフが張り出され「めざせ100枚」(犠牲者が107人だったので)と大書されていたらしいが、それを聞いたときは「さすがあの会社は血の気が多い」と啞然としたものだ。

SNSの普及でこうした取材手法も過去のものになりつつあるが、逆にSNSの写真をメディアが借用する際のルール整備が課題になりつつある。顔写真が必要とされる理由については後述するが、親族の同意なく無断で掲載されたといった苦情が相次いだ。「同意」というプロセスの確立は、SNSより前の被害者取材が解決できなかった課題でもある。

福知山線の沿線、特に三田、宝塚、川西といった街は異様な雰囲気だった。街の中心部にある斎場では連日、誰かの葬儀が続いていて、街を歩く人は大人も学生も皆、喪服姿だった。運行が止まったままの福知山線は、駅に動かない列車と赤さびたレールが放置されていた。まるで街全体が死んだようだった。

被害者取材班は、犠牲者の葬儀を、多くは遠巻きに見守って参列者に話を伺ったり、被害者宅に伺って遺族を取材したりするのが、連休中の大きな仕事だった。関係者取材で聞いた「●●さんはこんな人だった」というエピソードを、遺族や知人から話を聞いて裏付け、ストーリーにして社会面掲載を狙うということも、大型連休中に並行して進めていた。

そうした形で、遺族や負傷者と日常的に連絡を取り合う関係になった記者たちが、「被害者取材班」というグループとして残っていった。

被害者取材班にとっての現場は、遺族宅や病院。事故現場は近くにありながら、まったく足を踏み入れることがなかった。

一度だけ、同じように被害者取材をしていた取材班の先輩から「おい、余裕があるときに、一度現場を見ておこうぜ。一週間も経ったら散乱した現場も撤収され、跡形もなくなっているだろう」と声をかけられ、脱線事故の現場に足を運んだ。

被害者の救出が終わり、車両の撤去作業が進んでいた現場は、ブルーシートで覆われ、凄惨な様子をうかがい知ることは難しかった。ただ、普段なら列車が行き来しているはずの場所にブルーシートがかけられていたこと自体、異常なことが起きているということを物語るに十分だった。

未曽有の大惨事の発生で、取材班の人数は膨れあがっていた。主に西日本の総局から若手が多数、出張に来て応援取材に入っていた。大阪社会部もほぼ総動員となっていて、大阪府警担当や大阪府庁担当も駆り出されていた。総勢で言ったら100人前後になっていたと思う。

取材班は大きく「遺族班」と「原因班」に分かれていた。簡単に言えば、遺族や負傷者のことを取材するのが遺族班なら、なぜ事故が起きたのかというメカニズムを分析するのが原因班。原因班は、毎日何回も行われるJR西日本の記者会見に出席し、鉄道技術の専門家に話を聞き、やがて責任追及をする兵庫県警の捜査の動きを追う人たちも含まれていた。

事故現場は乗客の救出作業、現場検証と撤去作業に並行して、いつの間にか献花台が設けられ、犠牲者を悼む人々が多く訪れるようになっていた。そうした人々を取材する記者たちは、ローテーションを組んで現場に張り付いていた。

GWが過ぎ、応援で遠方から出張で来た記者たちや、他の持ち場から転戦していた記者たちが1人、また2人と去り、ある先輩記者から言われて青ざめた。「これからが大変だぞ。応援の記者は帰ってしまえばそれで終わりだけど、残った俺たちは被害者と関係を築かなければいけないんだから」

そうして神戸や西宮、三田の遺族取材の現場を駆け回っている間に、私はなぜか一部でとても有名になっていた。一度も出たことのないはずの、JR西日本の記者会見場で。

つづく

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