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執着と距離感と、なにくそ精神の強み

みなさまこんにちは!RENです。
今回の記事は“もう頑張りたくないな“とか“スピリチュアルってなんだよ!“と、ストレスを溜め込んでいる方は読まないでください。
とても疲れているし、今は頑張るべきではないし、そっと休むことに集中してほしいからです。

この記事は「仕方ねえな、いっちょやる気出すかー」という気分の時にだけ読んでほしいのです。

私がなにくそ精神を大事にする理由

なにくそ精神ってなんだよと思われた方、すみません。
「なんだよくそやったるよ!」そんな気持ちがなにくそ精神です。そして口が悪くてすみません。

私は小さい頃から不出来な子どもでした。
多くの大人から「お前はなにをやっても続かない」「能力の高い家系のはずなのにちっともスポーツが出来ない」「悪いところだけもらった子ども」だと散々な言われようでした。

実際、そうでした。

習い事もすぐに飽きてしまうし、学校に行かないので成績も悪いし、姉は自転車も一輪車もすぐに乗れたのに、私は自転車に乗るにも時間がかかる子でした。

本当に数えきれないくらい、親からも兄弟からも先生からも貶されて生きてきました。

母親からは小学校に行けない状態を指摘され、引きずり回され、先生からも厳しい言葉を浴びせられ、同級生からはいじめられていた状況が続き、ストレスが頂点に達した時、私の初めての“なにくそ精神“が発動しました。

「やったるわ」ただそれだけの気持ちで、様々なことを耐えて行うことにしたのです。そうすると「やればできるじゃん」に変わっていくということや、周りが私を恐ることを人生で何度も経験しました。

人間は弱いものいじめが大好きです。悲しいけれど事実です。
弱そうな人には強くでる人が多い。

だから、この人になら言っても良いだろうと思うと、人は烏滸がましくなり、ずけずけと言いたいことを言います。

私は“言わせない“を徹底的にやってきました。

それでも言うのは立場が上の親や先生です。出来た時は大して褒めはせず、出来ないことばかりを指摘する。そうじゃない人ももちろんいるけれど、私の周りの大人はそんな人ばかりでした。

“お前らみたいな大人にはなりたくない“これも一つのなにくそ精神でした。
なにくそ精神のおかげで、私は理想の自分に近づき始めました。でも理想に近づけたなと思うようになれたのはここ最近です。
今だにやっぱり自分嫌いだなって戻ってきてしまうときがあるから。
だけれど、一つずつ虱潰しにしている。個性は消さないようにその周りの余分な私の嫌いなところだけ潰しています。

人生は一生学びなので、私はずっと潰し続けるのだろうなと思いますが、着実と理想の自分に近づいている自分を誉められるようにはなりました。

高次元の存在にクレームを入れる理由

高次元の存在からの言葉を降ろしている私が高次元の存在にクレームを入れるなんて、ご法度だと思います。やってはいけないことです。
けれど、やります。
私はそもそも神々という存在を否定して生きてきました。神がいたらこんなに苦労することはないというような出来事の連続だったからです。

けれど、厳かな気持ちを持っていました。目に見えないだけで“もし、神が存在するとしたら私は神に丁重な態度を取らなければならない“と何となく思っていたのです。
だとしても、神が人々を手助けをするわけがないとわかっていました。手助けをしているとしたら、世の中でこんな悲惨なことや良い人たちが悲惨な目に合うことなどないはずだと思っていたからです。

ただ、目には見えないものを全否定するのは違うと思っていました。

高次元の存在と繋がるようになって、そういった存在を“認識“できるようになった私が何故今だにクレームばかりつけるかというと、高次元の存在に対する敬意はあります。けれどそれは「高次元の存在には高次元の存在が考えることがあって、それらを私たちが全知することは不可能なのはわかった。けど、試練だとか伝えにくるのなら、次元が低い人間にわかるように説明してくれよ」という気持ちでいるからです。

「じゃあ教えてあげるよ」

高次元の存在はそう言います。だから教えてくれます。私を使って、皆様に。私は経験を踏まえてそれらを言葉として翻訳させていただいております。
だから、私の人生は困難です。

体感出来ない、経験出来ない者に高次元の存在からの教えを説くことは出来ないからです。体感しろ人にそれらを伝えろ。それが私の使命です。
教えてくれるのなら、やります。やりますとも。ただご褒美だってほしいよって、またクレームを入れます。
けれどそういう時、高次元の存在はダンマリです。私はこっそり中指を立てます。その繰り返し。

だけど、それで良いんです。だって私たちは人間なのだから。次元が低いのだから。高くいられるのならいたいけど、私たちの知能はまだまだ未熟すぎるので、わかるようにしてくれよ!って思います。ただ分かるようにしてやるよ=厳しい試練が待っているので、私はいつになったら健やかに暮らせるのだろうと思いますね(笑)
ただ、私は無知である自分が一番嫌いで、恥ずべき存在だと思っているので、こういった試練が辛かったとしても、楽しくはあります。

執着と手放しについて

私の癖は“死にたくなったら遺書を書いて置いておく“ことと“自傷行為“でした。いまだに跡が残っているくらい深い傷が数箇所ありますが、今は後悔も恥じらいもありません。私がしっかりと向き合って生きてきた傷だと思っていますし、今もそうある方々にもそう伝えていきたいと思っています。

遺書を書くことで、私は一度死んだことにしました。“一度死んでいるからもう怖くない“言い聞かせながら生きてきました。

そして前向きになり良い方向が見えてきたら、その遺書を捨てるを繰り返していましたが、一度母親がゴミ袋の中からノートを見つけて、急いで電話をかけて来た時があります。

その時、私は笑ってしまいました。

もし仮に私が死んでいたら、自分がやってきた行いを悔やむのでしょうか。
そうなってはもう“遅い“のだと思います。
けれど、私が生きていればあの人は行動を改めることはしません。

何度も悔やんで欲しくてこの世を去ろうとしました。
私が人生の中で一番“執着“したことです。
愛と、憎しみや執着は表裏一体です。

今は手放すことが出来ています。それは心から私を愛してくれている“高次元の存在“がいるからです。一番の私の理解者でなのです。

サポートを全くしてくれない時も、沈黙の時も、それらは全て愛情です。彼らに“インナーチャイルド“も“執着“といった負のエネルギー全てが備わっていないからです。

けれどたまに口うるさい時もあります。高次元の存在は、極力私を1人で買い物に行かせないようにします。産んでくれたお母さんよりお母さんです。

でも、私がやることなすことに絶対的な“ダメ“は滅多に言いません。
“やりたいようにやって、体感して、経験して、失敗を覚えなさい“根本はそこにあります。

私は甘やかされて育ってみたかった訳ではなかったなと思います。
飼い猫のように育てられていたら、私はこの世の全てを汚いとすら思っていたかもしれません。

闇から生まれる光の美しさを知らないままだったと思います。

だから、厳しくても甘んじて受け入れます。
テーブルの前に座れば私は高性能な翻訳機になる。それが今の目標です。

本当はやってみたいこと、色々とあるんですが、それよりも今は鍛錬だと思っています。私の心、筋肉でムッキムキの武闘家にしようと思っています。
私が誰かの手を引いていけるくらいの力をつけたいと思っています。

小さい頃、大人に救って欲しかった人生でした。
だから私は少しでも誰かを救える人でありたいのです。

こんな武闘家みたいな暑苦しい占い師をさせていただいていて、みなさまが疲れないかなと不安になることがあります。
けれど、私も弱いです。強がって生きているだけです。

あるのはなにくそ精神だけ。

そんなお話をしておきたかったです。

REN

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